医学以前に、「男として」「女として」の意味。

投稿者: | 投稿日時: 2009年10月05日 11:46

私もお腹にいる子どもがどちらの性別か、そろそろ分かる時期ということもあり、先日から気になっていたのが、「性分化疾患」の問題です。

●性分化疾患新生児:男女の判定にガイドライン 症例調査へ
(毎日新聞 2009年9月28日)


つい先日も、世界陸上でアフリカの選手がその性別を疑問視されたことが大きく報じられました。検査等により彼女も性分化疾患であることが明らかになったようですが、それまでに、そしてその結果、彼女はどれだけ傷つけられ、傷ついたことでしょう。なんだかいたたまれなくなってしまいました。


そして改めて、「男として」「女として」、あるいは「男の子なんだから」「女の子は女の子らしく」などと、世間で深い考えもなく使われる表現についても考えてしまったのでした。

まずは、記事から性分化疾患についていくつか抜粋すると、


●通常は男女いずれかで統一されている染色体(XX、XY)、性腺(卵巣、精巣)、外性器や内性器(子宮、膣=ちつ)などの性が一致せずに生まれてくる疾患の総称。

●外見で男女の区別が難しい新生児が約2000人に1人の割合で生まれているとされる。

●新生児の段階で疾患が見つかった場合は、ほとんどがその時点で男女どちらが望ましいかを選び、手術やホルモン治療をする。

●いずれかの性に近づける医療にあたる際、医師が誤った判断をしているケースが問題化している。

●男性型と女性型の染色体が混在していたり、卵巣と精巣の両方があるなど、専門医でも判定の分かれる症例があり、家族や成長後の患者本人が医療に不信感を抱くケースも明らかになってきた。

●当事者や家族は周囲の偏見を恐れ、苦しみを抱え込んできた。出産直後に子どもの性別がはっきりしないと知らされた親は、いきなり重責を負わされる。男性と女性、どちらで育てるべきか。診断結果と方向性を示すのは医師だが、最終的に決断するのは親だ。

●さらに患者自身の苦痛は計り知れない。自分の意思が芽生えない段階で大事なものが人為的に決められ、それが成長してから自覚する性と違ってしまうこともある。家族や医師から告知されないまま成長し、第二次性徴期や結婚後に自分の疾患を知る人もいる。


私はこれまで、男女の区別がつきにくい状態(見た目の特徴と性染色体の男女が逆、ときに両性の特徴をあわせ持っている)で生まれてくる赤ちゃんがいることは、なんとなく耳にしたことがありました。しかし、さほど気に留めることもなく過ごしてきてしまいました。今回、当事者の方々の多くが非常に悩みながら生きていることを改めてきちんと認識し、いろいろな意味でショックを受けています。


何より問題は、親がそうして生まれた赤ちゃんの性別を出産後まもなく決めねばならないということです。たいていは染色体の示す性別に従うのだろうと思いますが、いずれにしても親自身、そして本人は多少なりとも悩みを抱えることになります。生後まもなく、「あるべき」とされた性別とは反対の見た目を呈している体の部位に関しては手術が行われるとしても、本当にそれだけで問題が解決できるかどうか、とても難しいところです。もしかしたら二次性徴が出てくる頃になって、もっと本質的な問題が顕わになってくるかもしれません。


そもそも、その頃までは、男女の差というのは大きいものではありません。振り返れば私も幼稚園から小学校低学年のころ(いつまでかははっきりしませんが)、どういうわけか「男の子になりたい」と思っていました。持っているおもちゃも、遊びも、さらには好きな色も、みんな男の子っぽかったのです(たとえば人形遊びには興味がなく、いわゆる戦隊もののテレビを見て、外ではいつも昆虫採集。赤が嫌いで、水色が好きでした)。


だからこそ、つまり本人とはいえ子どもの判断には任せられるはずもないので、生後まもなく親が医師と相談して、どちらかの性別に導く対処が必要なのかもしれません。でも、それが絶対的に正しいか分からないのです。だったらやはり本当は適切な時期に、本人が選択すべきこととも思えます。


ただし、文化的な違いは多少なりともあるにせよ、男女の区別は生まれたときから生活のさまざまな場面で社会的に強いられることでもあります。それは家庭でのしつけの中で、ということもありますし(私などもよく親や祖母から「もっと女の子らしく、きちんとしなさい」などと言われ、「なぜ、単に『きちんとしなさい』じゃなくて、『女の子らしく』がついているんだろう、などと子どもながらにちょっと反発を覚えたものでした)、一方、家から一歩外に出てもどこでも当たり前のように男女の区別が問われます。公的な書類や契約関係でもそうですし、子どもだって、幼稚園や保育園、学校などで、男女別の分類は当然のこととして使われます。


こうした私たちにとってはなんでもないことが、性分化疾患の方にとって社会を「生きにくい」ものにしている、ということなんですね。


先に「文化的な違い」と書きましたが、私が見てきた中では日本は比較的小さい頃から「男らしさ」「女らしさ」を、意識的に求められるように思えます。あるいは、「男とはこういうもの」「女とはこういうもの」という固定観念が強い気がします(たとえば、日本では女性の声は高いものと思われており、高めの声が好かれる、というのもそれと関係しているでしょうか。各国のアナウンサーの声を比較してみると面白かったりします)。良い・悪いは別として、そういう「あるべき」という考え方が強いほど、その枠からはみ出てしまう人・はみ出そうとする人には、窮屈に感じられるに違いありません。


そう考えるとますます、性分化疾患の問題は、医学的なアプローチだけでは解決できない、むしろそれ以前の問題ではないのかな、と思ってしまうのです。生後まもなく男女の別を決めねばならないのは、医学上の必要以上に社会生活上の要求であり問題ですが、はっきり分けられない人たちを社会がそういう存在としてそのまま受け入れるのか、あるいは強引にどちらかに決めさせるのか、そこを考える必要はないのでしょうか。


そういう意味で、今回、「性分化疾患」という呼称が正式に採用されましたが、この一般的なイメージとして「治療を要する」といった響きを含む「疾患」という言葉(学会でも、きちんとそのあたりを考慮して「障害」「異常」は避けたとのことですが)も、やっぱり良し悪しだなあと思ってしまうのです。当事者にしてみれば、「疾患」と割り切ることが出来れば、また社会の理解がそれによって進むなら、少し気が楽になる、という人もいるかもしれません。しかしかたや、世界陸上で議論を呼んだ選手のように、自分の性に対して、自分なりに疑問もあったかもしれませんが、それでも周囲も本人も納得して生きてきたのに、ある日突然それを「疾患」とされてしまう人もいるのです。このショックは計り知れません。医学的には「疾患」なのかもしれませんが、本人にしてみれば「個性」だったはずなのです。やはりそうした本人の考え方を重んじられる“窮屈でない”社会であってほしいなと思うのでした。

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