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「妊婦さんの笑顔を見たい」―大野事件・加藤医師が公開シンポで講演

最初は加藤氏の基調講演。澤氏、勝谷氏、梅村氏、西尾氏は降壇し、加藤氏だけが壇上に残り講演した。
加藤氏の講演内容の詳細は以下。


司会
それでは加藤克彦先生から基調講演をいただきます。加藤先生、よろしくお願いいたします。


加藤克彦氏.JPG加藤氏
福島県の加藤と申します。本当に皆様にはご心配をおかけして、申し訳ございませんでした。皆様には...、リラックスして、聞いていただければと、思います。逮捕勾留から公判前整理手続き、裁判判決の間、日本中の方々に応援と支援をいただきまして、大変感謝しております。またインターネットを通じて様々なご支援をいただいた方に心よりの御礼を申し上げます。

臨床の場に復帰しまして、4年目となりました。臨床の勘というか、感覚が戻るまでは多少時間がかかったんですけれども、現在は地域周産期医療センターの方で、地域医療に携わらせていただいております。

現在、今いる職場の助産師で当時一緒に働いていた助産師がいるんですけども、大野病院事件の話をすることはまずなくてですね、やはり先程3キロ(福島第一原発から大野病院までの距離)とありましたけども、原発事故で「あの時働いていた誰々さんはどこに避難した」とか「どこで働いている」という、そういうような話しか普段はしていないです。プライベートでも事件関係のことは話すことはほとんどないんですけども、先々週、たまたま当時一緒に働いていた外科の先生、手術の時に立ち会ってくださった先生も含めて3人でたまたまタイミングがあったので郡山の方で食事を、お酒を飲みに行ったんですけども、そのときに久々に大野病院のことについて話をしたという印象ぐらいで、ほとんどもう、忘れたいというのもあるんですけども、あまり、話には出なくなっている状況です。

もっとプライベートなことで話をさせていただくとですね、今回原稿を作っている際に家内と話をしていたんですけども、逮捕が土曜日で病院は休日だったんですけども、逮捕の前日に妊婦検診に家内が来ていてですね、内視鏡をして子宮の出口が3センチになっているというような話を家内から聞いていたりして、(聞き取れず)という感じで、本当に忘れかけているようなそういう状況でもありました。以前は公の場でも話しをしたこともありませんでしたし。今年になってそろそろ公の場に出てですね、元気な顔を見せたらいいんじゃないかというような声もいただきまして、今年の7月と8月、シンポジウムにちょっと出させていただきまして、来週出身大学の同窓会がありまして、そちらの方でお話をさせていただくということで、当初三回だけちょっと頑張ってこのような公の場で話をしようかと思っていたんですけども、今回こういうシンポジウムの場で、ちょっとご縁がありまして、話をさせていただくことになりました。

来週の講演以降は、よほどのことがなければ公の場で話すことはやめようと考えております。話をしたくない理由の一つとしてですね、やはりあのご遺族のことを考えるとですね、私の顔も見たくもないし発言も聞きたくないと...、思うん、ですね。勝手に僕がそう思っているだけなんですけども。ですので、本日ご出席の報道されるマスコミ、ジャーナリストの方には今日の私の報道をあまりしてほしくないなと(少し苦笑いしながら)、したとしても悪くは書かないでほしいなと思っていますので、どうかよろしくお願いいたします。

当時の状況、心境についてお話をさせていただこうと思います。当時、県立大野病院の唯一の産婦人科医として働いていました。月一回の週末だけがお休みで、それ以外は毎日がオンコールだったんですけども、毎日がとても充実しておりました。スタッフもすごくいい関係でいたんですけども。2004年12月17日に私が執刀していました帝王切開術の手術中に患者さんがお亡くなりになってしまいました。主治医として大変つらい出来事でした。手術室から患者さんと一緒に病室に戻ってきて、私はベッドサイドに立ってですね、ご遺族の方や友人の方と思われる大勢の方々にですね、一時間・・・ぐらいだと思うんですけども、罵倒をされ続けたんですね。当時、罵倒されるというか、罵倒していただくぐらいしか、ご遺族の方には何もできることがないかなと、思っていたということもありまして。またその場に僕がいたということで、僕がご遺族にとって良かれと思っていたことがご遺族にとって本当によかったかどうかは分からないんですけども、私としてもですね、主治医として助けることができなかったと、いうことがとても悔しくてですね、傍にいたかったというふうに考えていた、ということを記憶しています。

翌年3月に県の医療事故報告書を発表する前に見させていただいたんですけども、当時の事務長に「これでは逮捕されてしまいますよ」という話をしたんですけども、「ご遺族が補償を受けられるように、このような書き方になった」と、いうふうに返答されて、それで終わりな話でした。その後ですね、警察署の中で数回の事情聴取を受けて、その事情聴取を受けた時点で、弁護士の先生に相談しておけば状況も変わって、逮捕とか、つながれることもなかったのかなとも思うんですけども、実際どうかは分からないんですけども、警察と話をするような機会ができてきたら、弁護士に一度ちょっと話をしておいたほうがいいというようなことは、後々でも言われました。

逮捕時の状況をお話したいと思います。2006年2月18日、病院はお休みの日だったんですけども、「家宅捜索が入るので家にいるように」と、警察署の方から病院の事務の方に電話がかかってきて、事務の方から家の方に連絡が来たんですけども、なんかこう、自分に直接連絡が来るわけでもなくなんだか不思議な感じだったという感覚がありました。土曜日でしたので、念のため大学医局の方に半日のバックアップの先生をお願いして、家宅捜索後、警察署で話を聞きたいということで普通自動車の後部座席の真ん中の方に座らされまして、隣町の富岡警察署というところに連れていかれました。車を降りて、警察署の取調室に連れて行かれまして、椅子に座った瞬間に、正面に座っている方が逮捕状を読み上げて、そこで逮捕、手錠、腰縄と、いうような状態になりました。逮捕、という感じだったので、「このままで逮捕になると、医療界は大変なことになると思いますよ」という話を警察官に話したんですけれども、全く、気にしないで、もう全然聞いていないふりをしているような感じで・・・した。

その時ですね、入院中の患者さんとか、週明けの外来診療のバックアップの方が気になってしまいまして、電話をしようとしたんですけども、「電話もできません」と。じゃあ逮捕のことを病院の方に電話を、連絡をしていただいて、「病院から大学の准教授の方に連絡してください」という話をしたんですけど、後から聞くと、結局このルートでは准教授の方に連絡は行きませんでした。

身柄の拘束中、鉄格子の中に入っている時、刑事と検事の方から取り調べを受けるんですけども、検事の取り調べというものは、かなり、こうきついものがありまして、体力的にはですね、普通の医師の体力があれば問題ないと感じたんですけれども、精神的には、本っ...当にもうつらくてですね、こういう時が寿命が縮むのかな、という感じなんだろうな、というふうに思いました。

・・・・・・。後はですね、鉄格子の中の生活なんですけども、知ってらっしゃる方は聞き流していただいていいと思うんですけども、監視員の方からですね、新聞を借りて読めるんですけども富岡署管内の事件の記事は、黒マジックで消されているんですね。現実に例えば逮捕拘束となった人の記事が翌日の10行くらいの記事で、黒マジックでですね、引いてあるんですけども、黒マジックで消しきれないために、記事が切り取られているような部分があったりですね。時には一面自体がないようなこともありまして、ここからも私の件は反響が大きいのだなというふうには感じておりました。ただ、「イナバウアー」の、金メダルを取った、という記事はありました(会場少し和んで笑う)。

鉄格子の中ではですね、名前ではなく「7番」と呼ばれていました。数字的には悪くはないなあとは思っていたんですけど(本人苦笑、会場も少し笑う)、4,5日間は番号で呼ばれていたんですけど、途中からはなぜか「先生」と呼ばれることになったんですけども、なんでこんなところで先生なんだろうと不思議な感覚はあったんですけども(会場笑う)。後電気カミソリは共用なんですね。使い終わったら次の人にアルコールで拭いて、渡して、としていました。歯磨きの時に使うコップがあるんですけども、7番と書いてある発泡スチロールのコップなんですね。食事の時には同じ発泡スチロールのコップにお湯を注がれてですね、使うというようなこともしていました。

弁護士の先生に供述、いろいろ話したことの内容を記録しておいた方がいいということで、監視員の方にボールペンを借りたんですけれども、プラスチックの持つところの先端が丸い状態なんですね。ここがこう、丸い。ペン先が2,3mmだけ出ているようなボールペンで、斜めにすると書けないようなボールペンなんですけども、自殺予防、自殺防止のための形なんですね。こういうのがあるんだなと弁護士の先生に頂いた紙にこういう感じかなと書いていました。ちゃんとメジャーな会社の社名が(ボールペンに)書いてありまして、結構需要があるんだなと思いました(会場笑う)。

後はですね、3,4人ぐらい部屋の中に入れるんですけども、私だけ一人で入れられましてですね、しかも監視員の目の前の部屋でですね、部屋移動もなくずー・・・っと監視されてたんですね。2月の寒い時期でですね、他の部屋には鉄格子のところに防寒のためのプラスチックボードが取り付けられていて、そんなに寒そうに見えないような感じなんですけど、僕のところだけプラスチックボードも取り付けられない状態でですね、なんでだろうなと思っていてですね、結局起訴されて身柄拘束を解かれた時に監視員の人に聞いたんですけども、「上司の方から自殺をしないようにと厳重に管理しろ」と言われていたみたいでありました。寒かったんで、厚手のパーカーとジャージを着ていたんですけど、パーカーもジャージの紐ももちろん取り除かれて、こうずりずりと(ジャージが)下がっている状況ではありました(会場少し笑う)。

後はですね、後日弁護団の先生から「絶対に無罪だから自殺しないでください」と言われたことがあったんですね。まあちょっとどきっとした、という覚えはあります。2006年3月10日に起訴されてしまいました。その4日後に身柄拘束を解かれて、外に出られたんですけども、相馬市の実家の方に帰ったんですけども、逮捕されて7日目ぐらいに家内が子供を産んだんですけども、・・・そうですね、その起訴されるされないというよりも、もちろん起訴されると大変だとは分かっていたんですけども、されるされないよりも、こう、外に出たい、鉄格子から出たいというのがあって、やっぱり子供、家族に会いたいな、というのがあって、強く思っていたんですね。結局生まれて1か月ぐらいしてやっと息子と対面することになったんですけれども、まあ、その時の、抱っこした時のうれしさといったら、何とも、言えなかったですね。うん・・・、やっぱり家族だなというふうに・・・、実感しました。

仕事に関してですが、起訴休暇という、県立病院なので国家公務員なので起訴休暇というのがあるみたいで、裁判が終わるまでの2年半ですけども。一切、診療は、できませんでした。裁判期間中はとても不安で、いつまで続くんだろうと、とても不安だったんですけども、しかも弁護団の先生から「数年間、場合によっては十数年ぐらいの長期戦になるかもしれないよ」と言われまして、まあ結果がどっちでも、産婦人科医としては臨床の場に戻れないなというふうに考えまして、産業医の資格を取るために講義を受けたりとか、いうこともしておりました。

公判の内容に関しては、そうですね、今回は思い出したくないので、割愛させていただきます。

思い起こせばですね、私にはこの2年半ですけども、知らないことが次から次へと起こって、現実味が薄いんですね。なんだか異国の地にでもいるような、異国で過ごしているような感じでした。無罪になって、本当にホッとしました。

最後になるんですけども、私の件がきっかけで医療界が一同沈んだというふうに言われていまして、そのままいい方向に向かっていると言ってくださる先生方はたくさんおられるんですけども、その沈んだ際に、産婦人科をおやめになた先生もおられると聞いているんですね。私を命がけで守ってくださった、福島県立医大の故佐藤章教授ですけども、教授は病気を発症しまして、臨床には出られないぐらいの重症の時に、ベッドの中で、ベッド上ですね「好きな産婦人科医をもっともっと勉強したいのに」と仰ってたんですね。この魅力のある学問が好きでですね、産婦人科医になられた先生がですね、産科婦人科から離れてしまったことに関してですね、僕たちはすごく申し訳ない気持ちでいっぱいなんです。

また分娩する場所の集約化とかありましたので、お産する病院を探すのに苦労された妊婦さんも大勢おられますし、後は産婦人科を志す医師が減ってしまった、という事に関してもかなり責任を感じております。僕としてはですね、田舎で通常の医療を行っていただけなのに、なんで、と考えることはあるんですけれども、これからはですね、私としては今まで通り地域医療に従事することしか、できないので、真剣に、ぼくなりに頑張っていきたいと思っております。後は、産婦人科医ならでは仕事の魅力をですね、後輩たちに伝えることをお誓いしまして、お話を終了させていただきたいと思います。つたない話で本当に申し訳ありませんでしたけれども、本日はご清聴をありがとうございました。


(拍手)


*加藤氏は原稿を読みながら、時折会場にも目を向けてゆっくりと語った。最初「リラックスして」の発言にあるよう、なるべく会場の雰囲気が重くならないよう気遣っていたのかもしれない。ところどころに入れた、笑いを引き出すような柔らかい話も気遣いのうちかと感じられた。しかし、勾留中の話などは自身で言葉を体の奥から押し出しているような様子で、ハンカチで目の辺りを押さえる参加者の姿も多かった。


司会
ありがとうございました。加藤先生、一つだけ質問させていただいてもよろしいでしょうか。加藤先生が臨床に戻られても、産婦科を離れられるのではないだろうかという噂が流れたのですが、どうしてまた産科に戻られたのでしょうか。


加藤克彦医師
正直なところ2年半というブランクがあるという事と、後は、以前よりちょっとやっぱり怖くなってしまったという事があって、産科をあきらめようと思ったこともあるんですけども、やっぱりお産が好きなので、お産した後の妊婦さんの顔をですね、赤ちゃんと対面した時の顔、あの顔を見るともう今までの疲れもぼんと取れちゃうような、ああいう気持ちのいい場にまた戻りたいなという気持ちがありまして。それから弁護士の先生からですね、「先生は産科の象徴みたいな感じだから、やめさせない、やめるな」という感じで言われたのもありますが、やっぱり妊婦さんあの笑顔、あの笑顔を見たいがために戻ってきたというのはあります。


司会
ありがとうございます。実は本日ですね、福島県でずっと加藤先生に、3月11日まで危険な状態があるという事で入院されていた患者さんが原発事故があって危ないという事で大阪に避難されて、今岡山で赤ちゃんとともに暮らされている方が、今日わざわざ赤ちゃんを連れて「加藤先生にまだお礼が言えてないんです、お礼が言いたい、でも今福島に子供を連れていくのは無理だから、尼崎に来るんだったら岡山から出てきたいです。加藤先生に会ってお礼を言いたいんです」というお母さんが来てくださっています。それほどまでに加藤先生が臨床現場で妊婦さんに(聞き取れず)懸命に臨床医を続けておられることの証ではないかと私は感動しています。


ここで加藤氏の講演を終了し、15分間の休憩に入った。次に大野病院事件を振り返るディスカッションが繰り広げられた。


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