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梅村聡の目⑲ 尊厳死を進める前提に 患者の知る権利保証を

 最近、「尊厳死」に関する議論が盛んで、法制化を求める動きもあります。ただし、国民が自分の受ける医療について知り、考え、選ぶことを支える仕組みがないと、うまくいかないと考えます。7月25日に国会質問しました。

 「尊厳死」や「平穏死」という言葉を耳にする機会が増えました。必要のない延命治療が施されるなど、穏やかに最期を迎えられないケースが増えている裏返しでしょう。

 日本尊厳死協会は、尊厳死を「自らの傷病が不治かつ末期に至ったとき、インフォームドコンセント(十分な説明と理解をした上での同意)に基づく健全な判断の下での自己決定により、いたずらに死期を引き延ばす延命措置を断り、自然の死を受け入れる『死の迎え方』で、自然死と同義語」と定義しています。

 朝日新聞と日本老年医学会の共同調査(同学会に所属する医師1000人の回答)によると、過去1年間に、胃ろうなどの人工栄養を中止したり、差し控えたりした経験のある医師が51%いました。中止は22%で1人あたり平均4回、中止していました。医療現場において、いわゆる「尊厳死」はそれほど珍しいものではないのです。

 しかし、家族の同意を得て患者の人工呼吸器を外した富山・射水市民病院の医師が書類送検されたケースに象徴的ですが、現在の法体系では、治療の差し控えや中止は、医師が殺人や自殺ほう助の罪に問われる可能性があります。

 また医師、国民それぞれ、感情的な抵抗感も少なくありません。一般的に医師は「死は敗北だ」という医学教育を受けてきたため、治療を差し控えることに罪悪感を覚えます。国民側も、たとえ本人の意思に基づいていたとしても、やはり気持ちの悪いところがあるでしょう。

 こんなこともあって、法整備を求める医療者や国会議員の活動が活発になっています。しかし私は医療者の免責だけが前面に出てくるような法律ならば危険だと感じています。

免責の前に知る権利

 例えば「がんの末期は、余分な栄養や水分を入れたりといったことをしなければ、穏やかに死ねる」と言われます。しかしそれは、できることはもう何もないと確信しているから選べるのであって、「まだ何かできることがあるんじゃないか」と少しでも感じたり、疑問や不信があったら選べないのが、人間の心というものです。私の周りでも、家族の医療について一縷の望みを託してくる人が多くいます。

 不治かつ末期の状態で、周囲はどうするべきなのか、現在受けている医療は適切なのか、分からないから、「何もせずにいてよいのか」と不安が出てくるのです。

 まず患者と家族がすべてを知った上で選択し、それを医療者が行う限り免責されるという仕組みが必要だと思います。前者を保障する法律も必要でしょう。必ず両方同時に進めるべきです。医療者の免責の仕組みだけ先に進めると、「医者の都合じゃないか」と国民は感じるでしょう。

 2008年度の診療報酬改定で「後期高齢者終末期相談支援料」(75歳以上の患者と家族と医師らが終末期の治療方針を話し合い、書面にした場合に医療機関は200点を算定できる)が作られた時、私は猛反対し撤廃させました。厚生労働省には診療報酬に対する過信が見受けられます。診療報酬による政策誘導には医療者側の行動を変える力があるだけで、患者の心の持ちようや行動を変える力はないのです。後者を変えるようにしなければ、実効性のある政策にはならないのです。このことを何度も厚生労働省の官僚には言うのですが、よく理解してもらえず困っています。

これも政治家の仕事

 尊厳死は、「医療費抑制のため推進されている」との噂が巷に広がってしまっているため、政治家や厚労省も動きにくい現状です。

 しかしタウンミーティングでは必ず一般市民の方が話題にされます。自分がもし望まない医療を施されて延命されるようになったら嫌だ、家族がそうなったらどうしたらよいか、などの声です。私の家でも、食卓でそういう会話が出るようになりました。「胃ろう」や「中心静脈栄養」という言葉も、以前に比べて知られるようになりました。

 患者の自己決定を支える仕組みや、医療者の免責の問題等を議論して、必要に応じて法律を作るのは政治家の仕事です。

 そこで7月25日に行われた参院の社会保障と税の一体改革特別委員会の集中審議で、私は「患者さん本人が望む終末期の過ごし方を尊重し、死期を先に伸ばすだけが医療の役割という考え方を変えていくべき。これまで生きることと死ぬことは対立概念だったが、実は連続概念だと思う。本人の意向に沿わない延命治療や人工栄養を差し控えることについて、医療現場向けのガイドライン作成や法整備が必要ではないか」と質し、法案共同提出者の長妻昭議員から、社会保障国民会議の中で考えていきたいと賛同の回答を得ました。

 なお、この議論について、日弁連や一部の障害者団体が反対していますが、誤解があります。私は医療器具として人工栄養に使われる胃ろう等について言及しているのであって、障害者等が福祉用具として使っている場合や場面は対象にしていません。

 もちろん法律だけで済む問題ではありません。尊厳死について定めた法律のあるフランスのある地区では、月に1回近隣の医療関係者が集まって、互いに医療の中止や差し控えについてチェックし合う会議を行っているそうです。1人の判断では難しいのでしょう。

 また、積極的治療をやめようと決断しても少し時間がたつと気が変わるかもしれません。そういった心の揺れも許容できるようにすべきです。

 体制整備として重要なのは教育です。医療現場を志す学生には生と死は連続する概念として学んでもらいたいと思います。同じ集中審議で平野博文文部科学大臣にも質問し、各大学での終末期医療の教育を一層充実させていきたい旨の回答を得ました。

 これから多死時代の中で、国民は自分の受ける医療について主体的に情報や知識を得て考えていくことが重要です。医療側に「お任せ」するのではなく、積極的に知り、考えてもらいたいと思っています。

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