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梅村聡の目⑳ 在宅死に警察を呼ぶ社会 国民の意識改革が急務

 今、在宅看取りの現場で困ったことが起きています。高齢者が自宅で亡くなった時、たとえ死因が老衰や病気であっても、パトカーが来ることもあるのです。この不可解な現象がこれ以上広まらないように、先日国会質問し、厚生労働省から通知が出されました。

 高齢者が老衰や病気で亡くなっていくのは自然なことです。家族や大切な人に見守られながら、また一人で亡くなる方もいるでしょう。亡くなった後には、かかりつけ医が死亡診断書を書き、死亡届が出されます。

 ところが、この死亡診断書に関する法律が大きく誤解されていて、不可解なことが起きています。

 例を挙げると、こんなことです。ある医師が、がん末期の在宅患者の訪問診療へ午前10時に出かけました。翌日は夕方5時頃に行こうと思っていました。よくありそうな話ですね。しかし、その患者さんは翌日午後2時頃亡くなりました。死因は明らかにがんで、何の不審な点もないのですが、訪問に来て気づいたヘルパーが、医師ではなく警察を呼んだため、犯罪を前提とした取り調べが始まってしまったのです。

 在宅だけではなく、施設で高齢者が老衰や病気で亡くなった時にも同じことが起きます。警察は医療については基本的に何も分かりませんから、呼ばれても困るだけですが、呼ばれたら取り調べするしかありません。誰も犯罪など起こしていないのに、まったく珍妙な話です。しかし現実に国内各地で、この困った現象が起きているのです。

不思議な誤解

 原因は、医師法20条です。

医師は、自ら診察しないで治療をし、若しくは診断書若しくは処方せんを交付し、自ら出産に立ち会わないで出生証明書若しくは死産証書を交付し、又は自ら検案をしないで検案書を交付してはならない。但し、診療中の患者が受診後24時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については、この限りでない。

 条文の意味は、「死亡診断書や死体検案書は、医師が自分の目で見て診断・検案した上でなければ発行できません」ということです。当たり前の話で、全く難しくありません。
 最後の但し書きも「死亡診断書の場合、医師は患者が死亡する場面に常に立ち会えるわけではないので、その場にいなくても24時間以内に診察していれば、死亡診断書を発行できます。最後の診察から24時間以上経過していても、死亡後に診察を行い死亡確認したら、死亡診断書を書けます」という意味です。

 医師法は昭和23年にできました。当時は僻地や離島等に医師が少なかったので、必ずしも患者が亡くなる現場に立ち会えるとは限りません。当時の医療環境を忖度した免除措置だったわけです。

 ところが、これを「24時間以内に診察していなければ死亡診断書を発行できない」と誤解する人が続出しているのです。

 そこまでは分かったとして、警察に届けるのはなぜでしょう。条文のどこにも警察なんて書いてないですよね。

 カギは、20条の次の21条です。「医師は異状死を見たら24時間以内に警察に届けなければならない」というものです。

医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。

 異状死とは、頭に殴られた跡があるとか、体の一部がないなど、死因不明の変死等のことを指します。死体に何か不審な点があったり、事件性が感じられたりする場合には、医師は警察に届ける義務がある、ということです。

 これも当然の話です。しかし、医療事故や医療訴訟などが取り沙汰された時期から、この医師法21条の条文が医療者の間で有名になり過ぎたのです。「24時間」という同じ言葉があるものだから、20条まで警察に届けなければならないというように間違って読まれてしまったわけです。

 結果的に、「人が家で死んだら警察を呼ばないといけない」という誤解が広がりました。困ったことに医師だけでなく、看護師や介護職など、看取りの現場にいるスタッフ、さらに一般の人たちにまで伝わっている場合があります。

ようやく通知

 私は医師からこの医師法20条の解釈について尋ねられる度に答えてきましたが、訴訟への懸念もあるのでしょう。なかなか正しい解釈が広がらないので、困ったなと思っていました。国は、これから地域包括ケアや在宅看取りを推進しようとしています。でも、誰か在宅で亡くなる度にパトカーが来ていたのでは、進むわけがありません。警察にとっても迷惑な話です。

 この誤解を解くため、私は7月25日にテレビ中継が行われた参議院の「社会保障と税の一体改革特別委員会」の集中審議で質問しました。

 辻泰弘厚生労働副大臣は、世間に流布している内容は誤解で、私の主張が正しいと認めました。ただ、既に誤解を解消するために通知を出しているとの答弁。私が「その通知をいつ出したのか」と尋ねると、なんと「昭和24年」と答えたので、「今は平成24年です。早く通知を出してください」と言いました。国会内でも失笑が漏れていましたが、それが行政の対応の実際です。

 そして8月31日、正しい解釈を書いた通知が厚生労働省から出されました。

 正しい考え方が明示されたので、現場の悩みは少し解消されると思いますが、私自身はもう一歩踏み込んで、20条にある但し書きを外してしまった方がスッキリすると考えています。書いてあるから気にしてしまうのですし、厳密に24時間なんて計れません。24時間以内であろうとなかろうと、死亡診断書は、医師が診察して、診断して書くということが基本だ、と周知すればいいのです。医師が見て異状死だと判断した場合や、確信が持てなければ警察に届ける。シンプルにそれで十分でしょう。

看取り力の低下

 この件は、ただの法律の誤解ではなく、もっと多くの意味を含んでいると思っています。

 「警察」という言葉がどこにもないのに、「家で亡くなったら警察を呼ぶ」という歪な現象に誰も疑問を持たず、誤解が医師だけでなく介護職や一般市民まで広がる。とてもおかしなことではないでしょうか。

 医師の行動には、医療訴訟の懸念から警察の保証をほしいという自己防衛の気持ちが強く現れています。周囲の医療スタッフも、自分で考えるより、誰かに頼る方向で動きがちです。

 家族や一般市民の方には、"看取りの外注化"とでも言いましょうか、家族の老いや病気を受け入れる感覚がなくなってしまっているように感じられます。老衰している高齢者が亡くなったところで怖くなって救急車を呼ぶ、というのも同じ理由でしょう。普段から本人と関わっておらず、臨終の場面で、怖くなって「とりあえず」救急車を呼ぶことになります。そして医療者は「プロ」だからと、すっかりお任せして安心してしまうのです。

 救急車や警察を呼ぶことに対する精神的ハードルも低くなっており、以前なら当たり前だった在宅看取りが、どんどん特別なことになっています。違和感を持つのは私だけでしょうか?

お任せをやめよう

 そもそも"死"は医療だけが関わるものではありません。死にゆくことは、ご飯を食べたり、運動をしたり、子どもを育てたりという、人間の一般的な営みの中の一つの過程です。看取りの過程で、医療にできるのは、苦痛を取り除いたり、体力の消耗を防いだりといった、患者さんのQOLを高める"お手伝い"なのです。

 警察がいないと看取れないという社会は、明らかに変だと思います。日本の医師・患者関係、医療と警察と司法との関わりの問題など、無意識の中のお互いの警戒感や不信感......。こうした空気が、医師法20条を誤解させたのだと思います。

 厚生労働省にこの問題を伝えてもピンと来ないようで、官僚は病床再編など医療提供側の仕組みを変えることには大変熱心です。しかし診療報酬や医療提供体制を変えても、国民の心の持ちようには影響しないことを官僚はなかなか分かってくれません。国民の心の持ちようを変えなかったら、看取りの過程で警察が呼ばれる状況は続きます。

 今後の一層の高齢化を控え、まず必要なことは国民の意識改革です。それが置き去りにされているから、こうした問題が蔓延してしまうということに、彼らは気づいていないのです。もっと国民に在宅看取りについて普及啓発し、学校教育の中でも看取りや死について伝えていく必要があります。

 私の母親は、私がこれまで国会で行ってきた質問の中で、この医師法20条に関する質問が一番印象に残ったそうです。私は「マニアックな質問なのになぜ、一番興味を持ったのか?」と尋ねると、母は「うちのおじいちゃんが死んで、家に警察が来ないといけないのだったら大変やん」と答えました。母は、普通の大阪のおばちゃんですが、これが一般の感覚であり、忘れてはいけないものだと思います。

 入り口は医師法20条としても、これをきっかけに死や看取りということについて医療従事者だけでなく、一般の方にも考えてもらえたらと思います。

 大切な家族や自分の死について、他人任せにしないようにしなければ、間もなくやってくる多死時代は乗り越えられないと思うからです。

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