乗りかかった舟なので。 |
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投稿者: | 投稿日時: 2009年03月19日 06:34 |
繰り返し言っておきますと、私は別にこの件に関してはウォッチャーでもなんでもないのですが、やっぱりたまたま目についてしまったので続報とともに、考えたことを書いてみたいと思います。
受精卵取り違え第1回口頭弁論 香川県側は争う姿勢
3月18日11時34分配信 産経新聞
以前、グリーフケアについて取り上げ、つい数日前には、医療ADRについて改めて振り返ったところですが、記事を読んでいていろいろ思うところがありました。
※ちなみに以前のエントリーは以下の2つ。
医師謝罪会見で感じた違和感。
続・医師謝罪会見 倫理規定は誰のため?
ざっと記事の内容を振り返ると、
●事の発端は、香川県立中央病院(高松市)で不妊治療を受けた20代の女性が別の患者の受精卵を移植されたため中絶した、という医療事故。
●女性側は、「受精卵の識別、管理という重要な作業の過誤であり、取り違えた病院側の重大な過失は明らか。待ち望んだ妊娠が中絶という結果となった精神的苦痛は深刻」と主張し、2200万円の損害賠償を求め、民事訴訟を起こした。
●これに対し県側は、「2人分の受精卵の容器を1つの作業台に置いたことは軽率だが、故意に近い過失があったとする『重過失』にはあたらない」と反論。賠償金額などでも争う姿勢を示した。
私はかねてから、医療訴訟の増加が医療崩壊を招いていること、そして先日は医療訴訟では救われない患者・家族のためにも医療ADRを導入すべきことを、ブログ上で取り上げています。
しかし、この件については、香川県は「まあ、訴えられるだろうなあ」と考えるほかありません。担当の医師は素直に過失を認め、謝罪会見まで行いました。当然のこと、おそらく女性側にも直接、説明と謝罪をしていることでしょう。それでも納得できないのです。しかも、そもそもこれは組織運営上のエラーであって、医学的な問題ではありません。その真の当事者である県側は、女性側に対し、誰が、どれだけの、説明と謝罪を行ったのでしょうか。
ですから、この場合は医療ADR云々の問題ではなく、それでももしあてはまるとしたら、裁判準拠型のほうでしょう。しかし実際、裁判準拠型ADRなどで納得できるものかどうか、かなり怪しいことが、この例からもわかるのではないでしょうか。つまり、裁判準拠型ADRは裁判を起こしたいけれど、なかなか踏み切れないような人が頼る手段であって、実際に裁判を起こせてしまうような人をそちらにどれだけ誘導できるか、かなり疑問です。(潜在需要を発掘できるのですから、やはり弁護士さんたちには美味しい制度なのでしょうね。)
それに、今回たとえ裁判で女性側の主張が大幅に認められたとしても、感情的なしこりはずっと残るに違いありません。この記事を見てもわかるように、香川県の主張・姿勢からは、そもそも到底女性側に謝罪し、納得してもらおうという意志さえ感じません。それを目の当たりにしたら、いくら高額の補償金をもらっても、怒りは収まらないでしょう。
記事を読むほどに、内容的にもなんだかむなしい議論と思えてきます。おそらく「過失」か「重過失」かで補償の額が全然違ってくるのでしょうが、争点を故意にずらしているということでしょうか。女性が主張する「病院側(県側)の重過失」の中で、本来注目されるべきは「病院側(県側)の」という部分なのに、県側はそれを「過失か重過失か」という議論に落とし込んでいる(と、記事からは読めます)。まるで「医師の(過失あるいは重過失)」とでも言いたげです。
医療ADRは医療紛争解決に大いに役立つものと思いますが、対話自律型にせよ裁判準拠型にせよ、そもそも医療側(今回は病院・県)に誠意が欠けているのなら、結局は裁判に持ち込まれることになり、手間が増えるだけになります。「過失か重過失か」という認定に腐心して、肝心なことがおろそかになっているようでは、医療ADRを導入しても訴訟件数は減らないでしょう。またそのような態度では、事故を引き起こす組織的な問題の改善も、期待できるとは思えません。あらためて、医療崩壊を招いている医療側と患者・家族(国民)側の軋轢や乖離は、現場の医療者個人個人のせいというより、その上、トップや組織に問題があるのではないかと考えさせられました。