延命中止、法と倫理のはざまにあるもの
■委員の反応
【町野朔座長(上智大大学院法学研究科教授)】
ありがとうございました。先程の林(章敏)先生(聖路加国際病院緩和ケア科医長)のご報告(緩和ケアの潮流と輸液・リビングウィル)は、事務局(厚労省)が整理した「終末期におけるケア」に対応し、樋口先生のお話は「リビング・ウィルの法制化」の問題に対応している。
今日は、これの論点について深化する良い機会でございますので、どうぞご議論いただきたい。はい、川島委員どうぞ。
【川島孝一郎委員(仙台往診クリニック院長)】
非常に分かりやすくて良かったと思います。まず、お医者さんも、「(人工呼吸器の)差し控え」など、現場の状態をちゃんと把握していて考えているのかという問題が一つあります。それからさらに、法律をやっている方は現場の状況に疎(うと)いという問題が出てくる訳です。
それで特に最後の部分、これについて私の意見を述べさせていただきたい。法律の方が悪い訳ではなくて、医者が十分に実態を把握していないという実例がまさにここに出てきているという風に考えている訳です。つまり今日、(人工呼吸器を装着した日本ALS協会会長の)橋本操さんが(参考人として)来ております。人工呼吸器は、前には見えませんけれども、搭載型の車いすの後ろに人工呼吸器がございます。もし、彼女のフレックスチューブという、人工呼吸器から肺に通じるチューブを外すと、すぐにアラームが鳴って、そして......、(同協会の関係者に)ちょっとだけ外してもらえませんか?
数秒かかりますが、もうじきアラームが鳴ります。(数秒後、プププーというアラーム音)
あ、もう付けてください。(会場、ざわつく)
で、あのままだと彼女は、数十秒から3分で亡くなる、ということでございます。つまり、人工呼吸器というのは、彼女の、脇にある付属物、つまり足された何らかの機械なのではない。人工呼吸器自体が彼女の全体性に直接かかわって、彼女と同化して一体化している。つまり、人工呼吸器が彼女の足のつま先から頭の先まで、彼女の生死を握っている。彼女と融合したものなのだということになる。そうすると、お医者さんは「人工呼吸器を中止します」という医療者側の視点で、「それを外す」という言葉しか使いません。しかし、患者の側から見たらどうか?
「人工呼吸器と一体になっている私の全体性を破壊するのか」という話なのです。ですので、もし医者が人工呼吸器を中止するということを法律的に認めてほしいというのであれば、「人工呼吸器を中止します」という言葉は、使ってはいけない。「その患者を死なせます」とか、「その患者を崩壊させます」と言わなければいけない。このように言葉一つにしても、単に何かを外すようにしか、医者が思っていないという現実がある。それに法律家は乗ってはいけない、ということでございます。ですので、ここは、法律の先生方がいろいろ議論してらっしゃいますけれども、非常に重要なところを取り違えている。
それから、「人工呼吸器を付けると外せない」、これは論理のすり替えです。つまり、外せるようにするということは「死ぬということを自分で行っていいのだ」ということを是認することですので、自殺が法律的にOKになるような話だという風にも解釈できる訳です。ですので、この問題はもっと非常に詰めて熟慮して考えていただかないといけない問題だと思いますので、一応一言、話しておきます。
【町野座長】
今の最後(のスライド24)ですけど、私も一応、法律家のはしくれですので、若干コメントを。一番最後のところですね。(人工呼吸器を)「付けるか付けないか」と、「付けたものを外すか」という問題、両者同列だという議論は一部にあります。しかし、これは絶対的な、一般的な考えではないということです。それが、井田さんとか佐伯さんとか、山口さんとか、これが必ずしも一般的な考え方ではないです。
それからもう一つは、それを同列に置く人の中にも、「外すことはまかりならん」、そして「絶対に付けなければいけない」、その差です。要するに、すべて命を救う方に向かうべきだと。本人が拒絶したら付けなくて済むのでなく、「本人が拒絶しても付けろ」という考え方があります。
もう一つは、「本人が拒絶しようが、付けなくてもいい」「付けたものを外すのもいい」という、両方自由だという考え方があります。
井田さんの考え方というのは、どっちか分からない。もしかしたら、「両方外せる」という考え方かもしれない。「付けなくてもいい」という考え方かもしれない。しかし、「両方同列だ」という考え方を主張する人は、「本人が拒絶しても必ず付けなければいけない」という考え方。それから「外してもいけない」という考え方ですね。刑法の議論では、大体そういうところにきていまして、「両者を同列に置く」といことが、必ずしも一般的な考え方ではない。
今、ご発言ありましたような(川島委員の)考え方の方が、むしろ刑法の人には強いのではないかなと思います。私もそうですから。つまり、1回付けちゃったものを外すというのは、助かっていた人を殺すことになる。そして、「付けない」ということについては、やはり付けた方がいいだろうと私も思いますが、(付けないということは)これから命を亡くそうとする人を助けないということですから、因果の流れはそっち(死)に向いているので、それにあえて(法は)介入しない。
後者の場合、つまり「付けたものを外す」というのは、助かる方向に向いている因果を逆に向ける訳ですから、倫理的にも法的にも大きな差があると考えるのが普通じゃないかと思います。ですから、ジュリストの座談会の中には、「かなり特殊」と言うとまた怒られるかもしれませんが、一つの考え方があるに過ぎないと私は思います。法律の議論をして申し訳ございません。
【川島委員】
すいません、一言、付け加えさせていただきます。私は(日本)生命倫理学会に入っておりまして、一昨年、(日本)生命倫理学会の機関紙(生命倫理)に投稿論文が載っております。それは、人工呼吸器を例に取れば、「付けない」という差し控えと、「付けたものを外す」という中止は、明らかに異なるという論文が受理されております。これは、後で見ていただければありがたいと思います。ボリューム17のナンバー1に私の論文(身体の存在形式または、意思と状況との関係性の違いに基づく生命維持治療における差し控えと中止の解釈)が載っておりますので、見ていただければよろしいと思います。
「差し控え」と「中止」が同じだというのは、例えばオーストラリアの(生命倫理学者で安楽死を肯定する)ヘルガ・クーゼを含めた昔型の生命倫理学者で、非常に個人主義の強い、「その人間は死ぬ権利があるんだ」ということで、クーゼなどはかなりなところまで「亡くなってもいいんだ」ということを言っている訳です。
実は、林先生の(配布資料の)5ページ目を見ていただくとよろしいのですが、5ページ目の図(ギアチェンジからシームレスなケアへ)は、治療一辺倒だったのを緩和医療にどーんと切り替えるというギアチェンジ、これが昔型の考え方ですね。つまり、ヘルガ・クーゼのような考え方は、呼吸器を付ける、外す。今まで付けていたのを外してもいいんだ、どーんと、こういう昔型がまかり通るんでは、ちょっと困るんです。そうではないというところを皆さんに議論していただきたいと思う訳でございます。
【中川翼委員(医療法人渓仁会定山渓病院院長)】
中川です。樋口先生が、私が前回お話ししたことを本当に真摯(しんし)にとらえて、このようにご意見を述べていただいたことにまず感謝いたします。
こういうことが、私が一番望んでいたことですので、その点は本当に樋口先生が真摯な学者であるなと、お隣にいらっしゃる方にこういうのもあれですが。そういうことで、この議題を取り上げて法律家の立場からご意見を述べていただいたというのは、恐らく今まで3回(の懇談会)で初めてのような気がいたしますので、非常に感謝いたします。
ただ、聞いててですね、川島先生が言うように「医者にもいろんな医者がいる」というのも事実ですので、私は基本的に、終末期も含めてすべてそうですけども、医療側と本人、ご家族とのコミュニケーションがとにかく大事だというのは否定する余地は全くありません。これができてこそ、次の問題が出てくるんでして、それができてこその(生前の)意思表示ですから。それがなくて、紙だけ渡して意思表示してくれっていうのは全然考えておりません。
従って、十分コミュニケーションを取った後の最後の再確認みたいな形で、意思表示の用紙を......。私の病院もほとんど高齢者ですから、ご家族が書いてくるようなことが多いんですが、それはあくまで再確認ということで書いていただいている。それも本当に、亡くなった方の3分の1ぐらいです、書いていただける方は。それが現実です。
それと、私は法整備(に賛成)のような発言をしておりますが、私は急性期もやって慢性期にきていますから、救急の現状とか、いろんなことを聞き及んでですね、その結果として、やはり法整備は必要だと考えております。高齢者の終末期に法整備が必要かというのは、私もそこまで考えが至っておりません。
従って、必要な病態像によって必要な箇所から緩い法整備が必要ではないかということを申し述べたいだけでございます。と申しますのは、臓器移植法もつくるときに10年間ぐらいかかっていますね。極端に言うと、動いている心臓を止めること自体ですね、これは大変なことですけども、それによって助かる生命もある訳ですから、これと一緒にはできませんけれども。
しかし、川島先生のように非常に現場重視で、在宅(医療)を一生懸命やってらっしゃる方は非常にコミュニケーションを大事にされます。それ自体は分かりますが、総論として「日本はどういう形になっていった方がいいのか」ということを考えていかないと。あまり情緒的になっても、なかなかこう、"なんとか整備"というのは進まないように思います。
私は、樋口先生が言われた中で、「こういうガイドラインで十分じゃないか」というのはやはり、かなり楽観的な気がいたします。しかし、それをやってこそ、それができてこその法整備だと思うんです。ガイドラインができてこそ。実際にできてこその法整備だと思いますので、決して法整備だけが飛び跳ねてあるものでは決してないということ。繰り返しますが、医療者と本人やご家族とのコミュニケーションがとにかく大事であると。そしてその後に「リビング・ウィル」的な用紙も付いてくるもんだと。そして、最後にやはり法律というものが少し必要かなという風に考えている訳で、その辺はどうぞ、誤解なきようにお願いしたいと思います。以上です。
皆さんはこの記事にどう感じておられるのでしょうか
私はALS患者を連れ出して、さらに人工呼吸器を外して見せたことに著しい不快感を感じます。確かに短時間人工呼吸器を外しても人体に害はありませんし、喀痰吸引では当たり前のことです。しかし公開の会議の場でやることではないでしょう。強引に自分の論理に人々を誘導しようとするいやらしさと感じられます。
こんなことをしても延命治療の意味を考えるきっかけにはならないと思います。本気で延命治療の事を考えようとするなら、そしてその実態を知らないのであれば、ALSの患者に対して人工呼吸器をつけたいか、そのままつけずに行くのかを聞く場に立ち会えば良いと思います。植物状態になった患者さんのベッドサイドへ行けばよいと思います。がん末期と言われた人々のところへ行けばよいと思います。みんなそれぞれ違う苦悩を持っています。
延命治療をどうすべきかと緩和医療とは、また次元の違う話です。緩和医療は延命治療を放棄した医療ではなく、患者の「生活」を最大限に重視した治療です。だから「早期からの緩和治療」という概念が生まれるのです。「生」について「死」について本気で向き合う人々に審議してほしいものです。
まさに死にいたろうとしようとしている人であって、その人を救いうる手段がある場合に、その人を救おうとしないことは、直接的にその人を殺すことと同等の、間接的殺人であるという法の論理はよくわかります。これを引き合いに出して人工呼吸器をつけないことは殺人に当たるとするのは随分乱暴です。またすべての判断を医師だけにゆだね、結果を見てから法的対応を考えようというのもとてもひどい話です。みんなで考えるべきことです。延命による余命延長がどれぐらいだと延命する価値があると考えるのか、延命による生活がどのようなものであれば延命する価値があると考えるのか、延命するかどうかを患者個人の主観に任せて良いものか、ある程度の基準を作るべきか、みんなで考えてほしいと思います。利害関係が複雑でもめ事が起こりそうな時に、それを防ぐためのルールを作るというのが社会の基本でしょう。