延命中止、法と倫理のはざまにあるもの
【樋口委員】
(小声で)そうですね......。あの、うーん、うまく言えないと思いますけれども、私に名指しで(伊藤委員から)質問もあったので、無視するのもいかん、のでね......。
例えば、人工呼吸器の取り外しと、そもそも付けないというのが、違うのかどうなのかという話が......。これは、法律論的には町野さんがおっしゃったように、従来、「作為」と「不作為」という、なんか難しい言葉を使って、やっぱり違う。作為の方に対して法は厳しくて、不作為に対しては、あまり......。
つまり、付けないという方は警察が介入してくるかというと、実際、介入してこないと思っている訳ですよね、皆さんね。でもやっぱり、法律を離れればですよ、法律を離れれば、結局、外しても死ぬし、付けなくても死ぬということは同じですよね。普通に常識で考えて。それが違う訳がないんですよ。
今のような区分だけでやってるとどうなるかというと、「やっぱり付けられないですよ」という話になって、もしかして奇跡的に助かる人も付けられないままで終わってしまう。それもばかげたことだから、「別の方策を考えたらいいんじゃないでしょうか」ということです。
だから、刑法の法律的な議論では、「それは区別がありますよ」という話はあってもいいかもしれないんですが、私は法律で律しようという話は二の次、三の次、それは中川さんも同じで、最終的に、最後のところで法律も少し援助してくれよという話なので、それより前の話が大事だということで、皆さん今日、おっしゃってる訳ですよね。そういう点では一致している訳ですよ。
だから一番大事なのは、それより何よりですね、末期であれ何であれ、家族も含めて、何らかの形で大きな、聖路加(国際病院)みたいな立派な病院でなくても、少なくとも、全国均一なんていうことはないかもしれないが、「最低限、こういうことは配慮があっていいよね」っていうレベルをどうやって上げていくかということの方が大事ですよね。
その中で、緩和ケアも大事だし、「緩和ケア」の中に含めていいと思いますが、中川さんがおっしゃったように十分なコミュニケーションで説明をしてあげるということを一生懸命やってくれるお医者さんがいるだけでありがたいですよね、家族も本人も。そうやって自分のことを考えてくれるっていう。そういう医療を、医療だけではないかもしれないが、そういう体制をどうやってつくっていくかっていうことの方が大事で、「その上で」という話ですよね。
その上で、私はやはり「人はさまざまだ」というところに立脚するほかないと思っているんですよ。そういう意味では、「こうなったら死になさい」というのは押し付けですが、「こういう状態でも生きなさい」というのも、それは何が正しいかが自信のある、川島先生のような人でないと、言えない。でも、普通の人はそんな自信はないんですよ(他の委員から笑い声)。
それだから、倫理的なんです。それが。倫理は押し付けるものではないのでね。そうだとしたら、なんとかプロセスを重視して、みんなで、ない知恵を絞り合ってやっていくような体制をつくるぐらいのことしかできない。しかし、それだって大変なこと、実際には。それがいいの。そこに法律がどう関与していくのかというと、二歩も三歩も下がるべきだと言うの、私は。みんなそう思っているんじゃないだろうか。
さっき、町野先生は私に反対するようなことをおっしゃっいましたけど、本当はそうじゃないんですよ。それを誤解されてもらっては困る。例えば町野先生は、がんの治療の(日本)学術会議(死と医療特別委員会)の報告書の一員なんですよ(町野座長、笑い)。あそこに、延命治療の中止も含んで、「ある種の場合はいい」って言ってる訳で、つまりそれを刑事法の問題にして、「どんどんやれ」っていう風に町野さんが思っているかっていうと、思っていないんですよ。そんな誤解を与えるような発言をしないでもらいたい、私は。ほんと。そういう、気持ちなんですね。なんか、それこそ、「情緒に流される」って(笑い)、中川さんに怒られそうなので、そのぐらいにしておきますけれども。
【川島委員】
樋口先生に名指しされた川島でございます。物事を見ていくときに、「実態として、確かにあるものだ」という風に同定できるものと、私たちが頭の中で考えて構成している構成概念と、やっぱり大きく違うところがある訳ですね。ですので、「実態においては違わないのかもしれないけれど、その人間が思っているのか」という構成概念においてはまるっきり違うということがございます。「実態論として、こうだ」ということと、実は本人は頭の中の考えとはまるっきり違うようなことを考えているんだ。
でも、それって法律的にも重要ですよね。動機がどうなのか。動機って何ですか。人の心ですよね。だから、人の心の動きについても、やはりよく考えていただかないといけなくて、差し控えと中止は、実態は同じように見えても、これは心の動き、構成概念としては全く異なるということがいくらでもあるのだということだけは、付け加えさせていただきます。(池上委員が挙手するが、町野座長は気付かず)
【永池京子委員(日本看護協会常任理事)】
私、樋口先生の資料の、4ページ(2008年10月8日朝日新聞朝刊)を見ていまして、終末期医療で、本当に医療の現場が悩んでいるということの実態がここにとても表れているかなと思います。中でも、「家族によると、男性は『家族や友人、医療スタッフらとの意思疎通があってこそ、人間らしく生きられる』と考え、それができなくなったら『呼吸器を外してほしい』と願っている」。
「これが本人の本当の意思であれば外せるのか?」というところで医療現場はとても悩んでいるという実態がございます。だからといって、「リビング・ウィル」を法制化させようという立場にある訳ではなく、特に難しい状況であり、また「人間らしく生きられる」ということを医療従事者が、説明も大事なんですけれども、その前の林先生(樋口委員の前に意見を述べた聖路加国際病院緩和ケア科医長)の「全人的な痛みを理解する」ということを、私たちが応えてあげなければいけないということを忘れてはならないと思いました。
例えば、「もう右の方しか動かないんだ」ということは、この人にとって日常生活の動作というのは、ほとんど100%できないという身体的な苦痛がある。それから、呼吸器につながれていて自分も動けない孤独感や、精神的苦痛も社会的苦痛も、さらにスピリチュアルペインということに関しても、自分を支えるだけのすべての痛みを.........(...聴き取れず)中において、今、右の方が動いているんだけれども、それ全部なくなったときに、自分はどうなるんだろうという意思表示をしていこうという......(同)、医療者はどう応えていけばいいんだろうという、ここが本当に悩んで......(同)、何が欲しいというところの方につながっているのかなという風にこの資料を見て思いました(資料は樋口委員の提出資料ではなく、林章敏委員の提出資料)。
で、最後の「終わり(結び)にかえて」というところ(樋口委員のスライド23)では、「呼吸器外しだけで刑事処分された例はない」という風にお書きになっているんですが、私、これが本当なのかどうか、池上先生に、私、以前、先生から、終末期医療のガイドラインのプロセスに沿って外したケースが、刑事訴追されたケースがあったと、ちょっと伺ったかなと思うんですけど、私の勘違いかもしれません。この点、もしよろしかったら、池上先生、少し補足していただけますか?
【町野座長】
はい、今の(質問の)件も含めまして、先程から手を上げてらっしゃって、私、気が付きませんで、どうも失礼いたしました。じゃ、池上先生。
【池上直己委員(慶應義塾大医学部医療政策・管理学教室教授)】
それは法律の専門家にお答えいただいた方がいいと思います。私の知っている限りでは「ない」と思います。
で、私がご質問したかったことは樋口先生、これ(スライド5~8)、アメリカの事例が出ていましたけど、アメリカの法律の中で、重要なところが説明されてなくて、それは、「リビング・ウィル」という要素です。(アメリカでは)自分が意思表示できなくなった時点では、代弁者、アドヴォケイト(advocate)が意志を執行するという立場を取る。それが対になっているということであって、そうでないと、「リビング・ウィル」を書いたとしても、「いつ変わるか」ということは分からない訳ですよね。ですから、最期まで延命を拒否する、あるいは継続をするということを最期の息で述べない限り、いつ変わってもおかしくない。そういう事態ではまずいので「代弁者」を置く。
「代弁者」を置く意義はどこにあるかというと、これまでは医療者側と患者家族という対比で考えられてきたんですけど、それ以前に本人と家族との会話というのはあまりないのではないか。今回の国民調査でも、半分の人はまったく会話をしていないという状況が出てきた訳です。ですから、アメリカにおいて、アドバンス・ディレクティブ(advance directive、事前指示)を導入(法制化)した最大の意義は、家族と本人との会話がなされて、そしてそれを踏まえた上で......、踏まえないと、「代弁者」として規定することもできない。その要素について、(樋口)先生のお考えをおききしたい。
【樋口委員】
あの......、意図的にそれを削除した訳でも何でもないのですが、日本では「リビング・ウィル」の方があまりにも有名なのでね、「リビング・ウィル」はもう、自分でここにチェックしてという話になっているんですが、やっぱり先のことは分からない、本当は。自分がどういう状態になるかも分からないので、という話がありますよね。文書というのはどうしても固定的になりますから。
それで、もう一つの工夫をアメリカではしているんですね。Proxy Consent(代理同意)とか、Durable Power of Attoney for Health Care(持続的代理権法)とか、英語はまあ何でもいいんですが、今(池上委員が)言われたように、自分が最も信頼できる人に委ねるということです。自分がどういう状態になっても、「お医者さん、この人と相談してやってくれれば、私のことを悪いようにはしないはずです」と。この人が「人工呼吸器を外していいよ」という状態、医療の状態もありますが、そういうのに適合的な状態であれば、「それはそれで私の人生、私が選んだ人がそういう風に判断してくれるんですから」という方法もあって、その方が柔軟なんですね。だから両方あった方が、アメリカでもあれだと思いますが、それも含めてですが、じゃ、そういう状況で多数の人が全部やっているかっていうと、それはそうではない。
「そういう手段(代弁者)を取っても、それには法律的な効果がありますよ」ということがアメリカの州法で定めてあるのですが、その法律にのっとってみんながやってるかっていうと、それはそうではなくて、それにのっとってなくて、プロクシーという代弁者を選んでなくても、「医療の範囲内でここまで」っていう話もあるし、「もっと」という話も個別になされているということだと理解しております。
【池上委員】
あの......
【町野座長】
短く、すいません。
【池上委員】
「代弁者」という規定の仕方があるということが重要で、そのオプションが用意されている。日本では用意されていないというところが私は重要だと思います。
【町野座長】
それでは、最後に、どうぞ。
【日本ALS協会】
ALS(協会)です。「意思疎通ができなくなったら呼吸器を外してほしい」ということに関してなんですが、今、(同協会会長の)橋本が話しているのですが、この中の何人の方が橋本の口を読み取れますでしょうか?
誰も、いないと思うんですね。私も読めないのですが。ということは、本人は発しているんですが、受け取り側の都合なのです。意思疎通ができないということは、患者は自分では発信していても、受け取る側の技術によるんですね。
この場合、千葉の患者さん(の事例)ですが、大変一生懸命にご家族が介護されていて、舌がちょっとしか動かないのに、きちんと読み取ってらっしゃるので、大変安心して暮らしてらっしゃる。その中での不安なんですが、もっと介護力のない家族、誰もお見舞いに来ないような患者さんは、もっと初期から意思疎通ができません。透明文字盤で読み取るのですが、文字盤をかざしてくれなければ何も言えない状況なんです。そうなると、「自分が意思疎通できなくなったら、何かをしてほしい」というのは、自己決定のように思っていますが、患者は、実は他者の決定になってしまいます。そうすると、この場合は私たちは「積極的安楽死」に値するだろうと思っていて、それで「危ない」と考えています。
【町野座長】
分かりました。いろいろ(意見が)あるだろうと思いますが、時間が......、かなりきまして、今日の最後のところで、かなり法律的な議論になって違和感を持たれる方もかなりいただろうと思いますが、基本は、要するに患者さんに対して、どうしたらベストな医療ができるかという問題だろうと思うのですね。
そういうときに、お医者さんの立場もやっぱり守らなければいけない。なぜかと言うと、お医者さんが非常に危ない立場に置かれると、患者さんに対して医療を行うときに少し足かせになってくるところもある。逆のこともあるだろう。そういうことでは皆さん、共通の認識があるだろうと思うんですね。
ですから問題は、そのようなところで法律をつくる必要があるのか。つくることまで必要なのかどうか。そこまでまず、「必要はないんじゃないか」というのが多くの人のお考えなんですが。
それから中川先生も、まず最初にガイドラインとかいろんなことをやってみて、それからの話だということで、ほぼ一致はしている。
ただ、もう一つの論点は「リビング・ウィル」という特殊な、一つのやり方、「それにこだわるべきか」というのが議論されなければいけないだろう。プロクシーコンセントとか、確かに池上先生が言われるようなことがありまして、要するに「インフォームド・コンセント」だけで考えてきたのが「リビング・ウィル」の考え方なんですが、「インフォームド・コンセント」というのは、ポイントとして考える訳なんですが、恐らく「プロセス」を重視する今の考え方からすると、これ(リビング・ウィル)は必ずしもすべてを把握しているものではない。一つの「プロセス」の把握」の中で、「リビング・ウィル」というやり方が果たして適切なやり方なのかというところは、やはり議論しなければいけない。大体、皆さん、そこらでは一致というか、意見は集約されているなと思います。
今日は2つの論点について、かなり集中的な議論ができたと思います。もちろん、(今日)結論を出すという問題ではないですが、ここから先はどのようにしたらいいかということは、さらに詰めなきゃいけないと思います。今日はここまでで議論を終わらしていただいて。事務局、何かございますでしょうか。
【厚労省医政局政策医療課・大竹輝臣課長補佐】
本日は事務局の不手際で、(マイク故障により)時間が遅れたことをお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。次回の懇談会の詳しい日程等につきまして、また後日、事務局よりご連絡させていただきたいと考えております。よろしくお願いいたします。
【町野座長】
それでは、今日はお忙しいところ、長時間、非常に熱心に議論していただきまして、大変ありがとうございました。(散会)
皆さんはこの記事にどう感じておられるのでしょうか
私はALS患者を連れ出して、さらに人工呼吸器を外して見せたことに著しい不快感を感じます。確かに短時間人工呼吸器を外しても人体に害はありませんし、喀痰吸引では当たり前のことです。しかし公開の会議の場でやることではないでしょう。強引に自分の論理に人々を誘導しようとするいやらしさと感じられます。
こんなことをしても延命治療の意味を考えるきっかけにはならないと思います。本気で延命治療の事を考えようとするなら、そしてその実態を知らないのであれば、ALSの患者に対して人工呼吸器をつけたいか、そのままつけずに行くのかを聞く場に立ち会えば良いと思います。植物状態になった患者さんのベッドサイドへ行けばよいと思います。がん末期と言われた人々のところへ行けばよいと思います。みんなそれぞれ違う苦悩を持っています。
延命治療をどうすべきかと緩和医療とは、また次元の違う話です。緩和医療は延命治療を放棄した医療ではなく、患者の「生活」を最大限に重視した治療です。だから「早期からの緩和治療」という概念が生まれるのです。「生」について「死」について本気で向き合う人々に審議してほしいものです。
まさに死にいたろうとしようとしている人であって、その人を救いうる手段がある場合に、その人を救おうとしないことは、直接的にその人を殺すことと同等の、間接的殺人であるという法の論理はよくわかります。これを引き合いに出して人工呼吸器をつけないことは殺人に当たるとするのは随分乱暴です。またすべての判断を医師だけにゆだね、結果を見てから法的対応を考えようというのもとてもひどい話です。みんなで考えるべきことです。延命による余命延長がどれぐらいだと延命する価値があると考えるのか、延命による生活がどのようなものであれば延命する価値があると考えるのか、延命するかどうかを患者個人の主観に任せて良いものか、ある程度の基準を作るべきか、みんなで考えてほしいと思います。利害関係が複雑でもめ事が起こりそうな時に、それを防ぐためのルールを作るというのが社会の基本でしょう。