「自然に『死』と向き合える社会に」―認知症患者の介護家族の声⑤
■家族と本人の「考える力」育て、寿命に沿う
――今の日本は死をタブー視しているところがあると思いますが、考えることをやめてしまっていてはいけないですね。それが一層医療への依存体質を生むと思います。医療の中でも「治してやるから任せておけ」というところはあって、それが医療の発達にもつながった一方で、国民の依存体質も増長させたと思います。今、医療資源が不足していていくらでも医療ができるという状態ではないので、このままではいけないと思います。
市民が賢くならないといけません。人間には寿命があり、その人の生き方というものがあります。いつまでも生きていてほしいと願うというのはどうなのかと思います。家族はそこを間違ってしまうと、必ず後悔が残ると思います。本人はすっと亡くなっていきたいのに、それにあらがっているのは家族であったりして、本人の寿命に沿っていく、そういう家族が必要だと思います。
――家族が力を失ってしまっていることと、技術職でもある医療側の悪循環がありますね。
日本が戦後に成長を続ける中で、医療者は病気を治し、データを見て治療成績を上げることに集中してきたと思います。だけどこれから団塊の世代が高齢化して、80、90代の方たちが普通になってきた時に、果たしてこのままでいいのだろうかと思います。今の日本人は、検査をされ、病名をつけられ、薬を飲まされることで、病気にされているところがあります。そして医師の方にも病名を付けないといけないというところがあると思います。「治ることが幸せ」というのは、これまでの医療側の押しつけだと思いますし、その最たるものが胃ろうではないでしょうか。胃ろうは今から約30年前に、アメリカで嚥下障害のある脳性まひの子どものために、これから将来がある人のために作られたものでした。それが今は高齢者の延命に使われるようになってきていて、何かおかしいと思いませんか? 確かに必要な人もいますが、老いて体が弱り、認知症になり、そこで胃ろうが本当に必要なのでしょうか。そこには医療の傲慢があると思いますし、医療者がそれを煽ってはいけないと思います。私自身が父を介護する中で、父が胃ろうを本当に望んだのだろうかとずっと引きずっています。
――今は、医療の手段と目的が反対になっているところがある気がします。命を救うために医療が必要、という場面と、高齢者や終末期の医療は考え方が違うと思います。
日本は不景気になり、医療の人材やお金も足りなくなってきています。その一方で高齢化はこれからも進みます。将来のある子どもへの医療や、最先端で行っていく医療と、高齢化に対応する医療とは分けて考えていかないといけません。高齢者が自然に死ぬことができる、そういう社会にしていかないといけません。高齢になった人たちに本当にそこまでの医療が必要なのか、考えていかないといけないと思います。
――そうですね。そこを間違えると、日本人全体が不幸のような気がします。そのためには、私たちがまずちゃんと考えないといけないし、今の医療や介護を人任せにしないで知識を持って理解していくことが大事ですよね。
命を他人任せにするようなことはあってはならないので、家族や本人の考えていく力を育てていくことが大事です。必要ない医師やケアマネジャーなら切っていって良いと思いますし、薬が要らないなら要らないと伝えられるようにならないと。日本人は薬が好きという文化がありますが、薬は副作用と必ずセットなんです。それを分かっていないといけません。薬は飲む相手がいれば売れる、バックに製薬企業があることを分かっていないといけません。成人の服用する量が画一的に何錠、と書いてあったりしますが、元気な30、40代と体の弱った90代の高齢者が同じ量でいいのでしょうか? 一つの薬の処方の仕方でも、量や期間が画一的というのは本来おかしいですが、そのまま処方されています。よく分かっている家族は錠剤を割ったり、薬の量を減らしたりしていますが、知らない人はそのまま飲んでいます。その前に医療者にもっとアドバイスしてもらいたいです。