医療と刑法を単純に考えてみたら。 |
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投稿者: | 投稿日時: 2009年04月21日 10:50 |
昨日のニュース「延命中止、法と倫理のはざまにあるもの」によれば、先の第4回「終末期医療のあり方に関する懇談会」で、東大大学院教授の樋口委員が、法律の専門家であるにもかかわらず、終末期医療への法のかかわりに消極的な姿勢を示したことが大きな議論を呼んだそうです。
ニュースでは樋口委員のスライドとその説明が紹介されています。私がとても興味を引かれたのは、スライド5~8のあたり。アメリカでの、医療に対する法律のスタンスが端的に示されていて、改めて、医療と刑法について考えさせられました。
スライド5は、アメリカのロースクールの教材、すなわち弁護士さんのとるべき判断・行動のお手本の抜粋。300床の病院の顧問弁護士が、医師から、余命1ヶ月のがん患者本人が延命治療を中止するよう再三求めてきたことについて相談された場合、正しい回答は、「倫理委員会でじっくり相談してみなさい」だそうです。樋口委員いわく「しかし、日本になると嘱託殺人という、すごくおどろおどろしい話になる。『それは一体どうなんだろう』ということを私は考えている」。
スライド6と7では、アメリカの医師国家試験の具体的な問題が示されました。交通事故で脳死となった男性が臓器移植カードを所持し、明らかな臓器移植提供の意思を示しているが、家族は反対だというとき、どうするのが正解か、という問題です。樋口委員によれば「日本と違って、アメリカの法はどこの州でも本人の意思だけです。家族の意思はきかなくていいという。『家族が反対しても、本人の意思だけで臓器移植が決まります』というのがアメリカ法」なんだそうですが、この正解はなんと、「人工呼吸器を止めて臓器を摘出する」でも「裁判所命令を待つ」でもなく、「家族の意思を尊重し臓器提供をやめるべきである」というのです。
また、スライド8でも、患者本人の判断能力を加味した上でその意思を最大限尊重、問題があれば倫理委員会に諮るという流れが示されています。アメリカの医療現場では「何でも法に頼る態度はとられていない」ということですね。
これらを読んで、素人の頭で単純に考えたことは、「民法(あるいは商法?)みたい!」ということです。私は法律を専攻したことはないので詳しいことはよく知りませんが、たしか「私的自治の原則」というのを聞きかじった覚えがあります。
うろ覚えなので、ちょっと調べなおしてみました。私的自治の原則とは要するに、「取引する当事者間では、両者の合意が何より優先する、という理念。私法では条文通りに法が適用されるとは限らず、当事者がこの条文とは異なる合意による契約をした場合には、それが優先される場合がある」とのこと。ちなみに「私法」とは、民法や商法など、個人の生活の権利や義務を規定した法律で、これと対峙するのが刑法などの「公法」だそうです。
福島県立大野病院事件での産科医の逮捕や、その他多くの医療事故がこれまで刑事事件として捜査の対象となってきました。これに対し、医療界をはじめ識者の間では、医療への刑事介入について強い疑問の声が上がってきています。一昨日のニュース記事「どうなる医療事故調」でも、その議論が錯綜している“大人の事情”的な部分がつまびらかにされていますが、そもそも医療事故調については、厚労省の大綱案が、調査内容を刑事事件につなげるとしている(医療事故を警察への届出対象としている)ことでも、議論が対立・紛糾してきました。
しかし今回、このアメリカの法の運用を見て、なんだかシンプルに考えればいいような気がしてきてしまいました。難しいことはわからないのですが、とりあえず思いついたままを書いてみたいと思います(かなり大雑把な見方なので、細かい点等はぜひご指導ください)。
考えたのはつまり、医療も「私的自治」、「私法」的な考えが支配する分野でいいんじゃないか、ということ。他のエントリーでも「医療が特別な公共サービスか否か」ということが話題になっているとおり、確かに、昔と比べれば今は「医師は特別な人」という感覚は国民の間で格段に薄れています。昔は医療は「施してもらうもの」でしたが、今では「お金を払って得るもの」という捉え方も珍しくありません。上にあったものが人々と同じ高さに下りてきた、というイメージでしょうか。それがいいことかどうか、正しいのかどうかは、引き続き議論が必要ですが、要は、時代も違えば医療もやっぱり変わらざるをえないのだろうということです。だったら、法律の介入程度も、昔と違って当たり前だと思うのです・・・。(まして、異状死を医師が警察に届け出る義務というのは、行き倒れが珍しくなかったような時代背景をもとに作られたものだそうですね。そんな時代じゃないのは誰だってわかってます。その趣旨を無視して文言だけ逆用したような検察・検察の捜査も、あらためて良識を疑ってしまいますよね!)
もちろん、人の死が深く関わる分野ですから、それだけ慎重になるのはわかります。でも例えば、民法が刑法的な捜査を排除しているわけでもありません。医療事故調の議論では、「内容を警察の捜査とがっちりつなげてしまう大綱案と、警察の排除を狙った野党案」というイメージがありますが、野党案をよく読むと、個人が警察に通報することを妨げるものではないようです。そういう意味では、私は野党案のほうが支持できると思います・・・。
いずれにしても医療は万能ではなく、過失なく不幸な転帰をとることはもちろん、過失が起きることさえ絶対に避けられるというものではないですよね。それに対し、すぐに「警察を!」と考える国民がもしいるのだとしたら、その考え方のほうが問題です。あるいは、警察や検察が隙あらば介入しようとしているのなら、それはお門違いという気がします。
それよりむしろ、医療が施されるものでなく対価を払って得るサービスという側面が国民になじむようになってきているなら、そのいわば“契約”の性質をあらかじめ国民も知っておくべきなはずで、そうしたことについての医療側と国民側の合意を作っていくことこそ、まずやるべきことかなあ、と思ってしまいます。その上で、万が一の場合に医療事故調が両者の間に仲裁役として登場するのであって、医療事故調はそこに警察を引き込む立場にはないんじゃないかと・・・・。
ということで、「私的自治」のために、まずは医療側に自主的ルールなどを積極的に設けてもらい、医療における“契約”の性質、特殊性を、国民に対して明らかに示してもらえたらなあ、と思うのです。
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コメント
法律関係の学者が「法律で制定するのは難しい」とおっしゃったことは意外でした。もっと厳密に形をつけたいのかと思っておりました。この問題は考え始めるときりがない問題です。死生観は国・宗教によっても異なり、同じ民族でも個人により一致はしないからです。医師と患者側(本人および家族)の信頼関係にのみ左右されるところでしょう。
『犯罪性がない限り』は、警察には触れてほしくない部分の最たるところ。同じ医師同士であってもアンタッチャブルの世界だと思います。司法の考えと警察は違うんですね。
司法が「医師の裁量範囲」を認めてくれるなら、医師側こそガイドラインとまでは言えませんが、「考え方・声明」を出すべきなのかもしれませんね。
倫理は法律よりも生きるうえで根源にあるものです。ひらたくいえば倫理と法律が相反するとき倫理が優先されるのが生きてゆくうえでの本然です。倫理は文章化することはできません。もっぱら生きてゆきながら体得・感得されるものです。倫理的に生きることを体得させるものがマナーや躾と呼ばれる文章に依らない教育法です。これにはいわゆる言葉を戦わせるものに過ぎない議論の余地などありえません。
日本の法律でよく見かける○○倫理法・倫理規定などという文章化されたものはこういう倫理の本質を理解していない稚拙な作文といわざるを得ません。
ゆえに倫理の世界には「私的自治」の概念も当然ありません。みな同じ人間どうしなのですから。
>ということで、「私的自治」のために、まずは医療側に自主的ルールなどを積極的に
>設けてもらい、医療における“契約”の性質、特殊性を、国民に対して明らかに示して
>もらえたらなあ、と思うのです。
これは「あのまあるいお月様をとってきて頂戴」と同じ、ないものねだりですね。
正しい答えはそのように思う一人一人の本然のうちにじつはすでに具わっているのです。
法科に丸投げせずに「現場ではこうなっているんだ。現状を追認しろ」と
医療サイドが「生命倫理についてはこうしたい・こう考えたい」と基本的な考え方を述べるのはアリかもしれませんよ。
>アリかもしれませんよ。
アリかもしれませんね。
ところで「延命中止、法と倫理のはざまにあるもの」ニュースのコメント欄にあるふじたん様のコメントに今日気づいたんですが、ほぼ全面的に同感でした。特に、
>私はALS患者を連れ出して、さらに人工呼吸器を外して見せたことに著しい不快感
>を感じます。
に共感しました。
一内科医さま 前々期高齢者さま
“契約”という言葉の選択はかなり微妙だったのは確かですが、一内科医さんが2つ目のコメントで示してくださったように、医療が本質的に持っている特殊性からすれば、生命倫理に関する見解をまず医療側に示してもらえるのは一般国民にとっては必要なことだし、良心的だと思えます。医療に携わる方々は常日頃からそうしたことを意識されてお仕事をなさっているのだと思いますが、普通に生活している一般の国民は、自分や家族、大切な人の身に命に関わる事態が降りかかった時にはじめて、通常は事後的に、そこに考えが及ぶのが本当のところだと思います。
もちろん倫理観はひとそれぞれ、医師の方々のあいだでは考えにかなり幅があるかとおもいますが、それでもそこはやはり議論していただき、一定の見解を出していただければと思います。しかし、それが“絶対”である必要はないですし、そうあるべきでもなく、最終的には個別具体的に、本人や家族の意向が最大限尊重されるべきだと考えます。
ちなみにALS患者さんの人工呼吸器をはずして見せた件、私も記事を読んでいてかなり唖然としました。あの場面で、そこまでする必要があったとは思えません。
>倫理観はひとそれぞれ
違います。
ふじたん様が不快感を抱き、私も堀米くんも同じ場面に不快に感じた。これが同じ倫理を感得している状態ですね。倫理とはまさにそういうものです。
>医療が施されるものでなく対価を払って得るサービスという側面が国民になじ
>むようになってきているなら、そのいわば“契約”の性質をあらかじめ国民も
>知っておくべきなはずで、そうしたことについての医療側と国民側の合意を作
>っていくことこそ、まずやるべきことかなあ、と思ってしまいます。
その通りだと思います。
医療はまるで魔法のような人智を超えたものではなく、専門家が持つ知識や技術です。
限界やイレギュラーが存在することが前提となるうえで、それぞれの場面で目指すレベルがあることを、その職能の誠意をもって伝えるべきです。
さも万能であるかのように振る舞い、自らが特別であると主張すればするほど、患者‐医療者間の溝は深くなります。
医療業界が、自分たちの思いとは裏腹に時に白眼視されるのは、主張の割に自浄作用がないことも原因の一つではないでしょうか。
もし患者側が医療者に対して畏敬の念を持つとすれば、自らの職務が生命や健康を扱うことに関して誠意をもって望む、その姿勢であるのでしょう。
前期高齢者様
倫理は大切なものであるほど、当たり前であり、文字に表されることが少ないですね。しかし、その思い込みがしばしばボタンの掛け違いを引き起こします。とくに近年、モンスター●●と呼ばれる人たちが問題となっているように、かつては皆が共有していたであろう常識や倫理観に従わない人々の数が、例外として無視できる数を超えてきています。そうなると残念ながら、各人の良心に任せているだけでは秩序が保たれないので、確認作業とそれを文字にすることが必要になってくるのかなと思います。
であるとしても、その確認作業のよりどころは、やはり個人個人の持つ倫理観であり、感覚であり、直感なんですね。その作業は今後の課題であるし、また成果として出される文字でさえ、個別具体的な問題の全てに答えを与えるものでもありません。そう考えると、今すでに文字になっていること(法律等)を絶対あるいは最優先させることは、間違いを生みます。少なくとも、それに限界があることは認識しておかねばなりませんね。
逃亡者さま
>さも万能であるかのように振る舞い、自らが特別であると主張すればするほど、患者‐医療者間の溝は深くなります。
医療業界が、自分たちの思いとは裏腹に時に白眼視されるのは、主張の割に自浄作用がないことも原因の一つではないでしょうか。
昨今の医療訴訟の頻発等により、万能であるかのような主張は、むしろ減ってきているかもしれません。しかし、自浄作用がないことが国民に実際以上に悪いイメージを与えているのも確かでしょうね。
>もし患者側が医療者に対して畏敬の念を持つとすれば、自らの職務が生命や健康を扱うことに関して誠意をもって望む、その姿勢であるのでしょう。
まさにそう思います。かつての「医師像」というものが失われ、ある意味等身大となったとき、国民は目の前の医師を一人の人間として評価します。ただ、そうした関係はきっと、今もどこかで、特定の医師と患者さんの間には成立しているのかもしれませんね。
>「延命中止、法と倫理のはざまにあるもの」ニュースのコメント欄にあるふじたん様のコメントに,ほぼ全面的に同感でした。
と述べましたが、先に述べたデモ以外の部分についても思うことがありましたのでもう少し述べたく思います。
(ふじたん様)
>・・・法の論理はよくわかります。これを引き合いに出して人工呼吸器をつけないことは殺人に当たるとするのは随分乱暴です。またすべての判断を医師だけにゆだね、結果を見てから法的対応を考えようというのもとてもひどい話です。
この部分にも同感しました。呼吸器の装着・取り外しのいずれにも医師の判断に対して刑事責任を問う可能性を排除しないという話ですから。それも法に明文化しないままで。
一般的に医療においてそもそも呼吸器装着・離脱という「医師の」治療行為だけが人工呼吸器が生命維持に不可欠の患者さんの「死」を左右しているでしょうか。装着中に大規模停電が起こってバッテリーが不調でも否応無く死が訪れます。介助者の注意が届かないときに事故抜管が起こってもリカバリできないでしょうから同様でしょう。医学や医師の力の及ばない場面は日常的に満ち満ちています。そのなかでなぜ医師の医療行為の刑事責任だけを問う「可能性」を法は排除しないのでしょうか。
法がこのままであれば、たとえば救急の場面で挿管困難例で挿管に失敗して結果的に救命できなかった時の「医師の」挿管失敗にも刑事責任を問う可能性をも法は排除しない、ということになります。人工呼吸器を装着するための気切も人間が行う以上100%の安全性はありませんが、この刑法のもとでは100%でなければ気切した人間の刑事責任を恣意的に問えるとするわけです。法と倫理の狭間といいながら、町野氏の刑法論理には倫理の存在をどの狭間にも全く見出すことが私にはできませんでした。