医療崩壊と司法の論理
手島 判例の中には個別性と一般性とが含まれていて、一般性は他の分野にも応用できると考える。ただし医療は個別性が高い。それぞれの判例が持っている拘束力には検討が必要。簡素化した一般ルールの提示は慎重にすべきであろう。
医療には社会的営みの側面があるというのは、その通りで、保険診療に言及しているものは少ないけれど、ただし私が承知している限りでは、「保健医療の限界はあっても、それに捉われず実施すべきであった」という判例はある。それから経済的側面について何も考えていないということではない。実行可能なものは医師患者の関係の中でどこかに限界があるというのは暗黙の了解として含んでいる。経済的視点を前面に出してはいないが、ただし「不払いだからといって診療を拒絶できない」という判例はあった。
(川口の心の声)ここで挙げられた判例は、長谷川教授の問題提起への反証となるどころか、むしろいかに判例がトンデモないかの実例にしかなってないと思うのだが。。。
佐藤 判例は関わった人たちに効果がある。関わった人以外に効果があるかは、また別の話。一般化するには制度化する作業が必要。それから法律の判断というのは、医療者を第三者的に見て、結果の重大性を見る。不幸にして亡くなるという出来事があった時、その結果から遡って何をしてほしかったと推論していく構造になっている。
和田 私も法律家のはしくれなので、今のお二方の答えをもう少し分かりやすく説明すると「だって法律はそうなってるんだもん」ということだ。
小松 思考の枠が狭すぎると思う。経済を知らなすぎる。たとえば、借主保護と言って借地借家法を厳しく判決しすぎたら何が起こったか。家族向けの賃貸物件がなくなってしまった。自分たちの行為が何を引き起こしているか考えずに「だってそういうものだ」というシステムはまともなのか。法が変わらない限りアプローチしにくいという内側の論理だけでやっているなら、道具と変わらないでないか。
中田 判例は関係ないと言うけれど、裁判では必ず再発防止もしてくれと言われる。で判決を見ても、結局どうしたら良いのかが見当たらず途方にくれることが多い。極論すれば、訴訟になってしまったものは仕方ないと言えるのだが、その後も同じような患者さんが来院する。同じような場面、同じような訴訟にならないようにするにはどうしたらよいのか。
保険診療の枠内で活動していることは是非とも考慮してもらいたい。患者さんにもスタッフにもエラく評判の悪い医者がいた。何が評判悪いかというと、とにかく外来を延々と夜中の9時ごろまでやっていて、患者さんを待たせて、スタッフも引っ張っている。何とかしてくれと言われて当人を呼んで事情聴取したところ「丁寧に説明しているだけだ。最高裁判例でも、ちゃんと説明しろと言っているではないか」と逆に言われてグゥの音も出なかった。保険診療の中では説明してもお金にならないので、そのためにスタッフを増員するわけにいかない。判例が要求することをマジメにやると、こんなことになる。困っているというのが正直なところだ。
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