医療崩壊と司法の論理
手島 司法が患者救済にシフトして医療者の行動を制約し、その大きな影響が現実に社会問題化しているということだと思う。これまでも色々なことがあった。交通事故が点数制になったり少しずつ制度化されていった。同じように医療事故を対立構造で考えるのをやめて新しい構造を作るのはあり得る。国全体で対応しなければ大変なことになると認識されれば立法で対応されるだろう。新生児への保険的対策のように、今の裁判の限界を見極める前に、そもそも司法解決の方策を取らないで済むような制度の産みの苦しみの前段階と見ることができるのでないか。
佐藤 対立の思考は良くない。それはおっしゃる通り。過去思考で責めても生産的でない、将来どうしようかと考える方がよい、それはそっちの方が絶対に良い。ただし、裁判で絶対にそれが無理かと言われると難しいけれど無理ではない。被害者の命日に分割払いを命じる判決があったりして、未来志向を取り込むように工夫する法律家がいればできないことではない。夢物語とは考えてほしくない。裁判では無理だからADRでと言っても根底にある考え方が堅ければ同じことになる。工夫していく人が増えることが課題なんだろう。楽観はできないが悲観することもない。
それから対立が必要な場合もある。お互いに緊張してギリギリの所まで行かないと和解が成立しないようなことはある。最初から最後まで仲良くできればそれに越したことはないが、対立を将来に生かすという視点が大切だろう。
和田 そんなことは当然であります。それはさておき、被害者の救済と医療者の責任追及とが反比例していると思うのですね。被害救済のために医療者を追及するというのでない、それを超えたシステムを考える必要があるのでないか、と思います。
手島 帝京大学のケース、これで数千万円は厳しいなあと思う。説明義務違反一本で、もう少し争う余地はあったと思う。選択の結果は患者自身が負うべきというのが大枠にある。
佐藤 期待権侵害に落としこめる。額で評価すると、一般で使われる法理論からすると、フィクションではあるがケタが多いなと実感する。もう一つは争いになっているのがカテーテル操作のうまい下手で、負けた勝ったが二者択一判断、そこだけの話だと思う。ただ、なぜその病院に行ったのというのが不思議だ。その点は訴訟の過程で争われたのだろうか。過失相殺が蹴られてしまうのは意外だ。
井上 私が普段言っていることは、同じ質問を繰り返す患者には気をつけろということ。学校でも、できの悪い生徒ほど何度も同じ質問をするでしょう。だから何回も説得が行われるということになると、説明の時にレベルを上げていかないといけない。今の裁判所の傾向として、ずっと同じことをやっていると最後に説明義務違反で引っ掛けられる。
カテーテルの方については刑法にもあるけれど条件関係の「あれなければこれなし」で、結果回避可能性があったのか、もしあったとするならばどういう方法があったのか、これを言えていたとすれば、どうしてこの判決が出たのかなと思う。
中田 将来へ向けたアドバイスがいただけて感謝している。次どうするかといった時に、訴えられても良いようにお金を貯めておくか、そういう患者さんは断るしかないのでないかと考えていたが、非常に建設的な真っ当な方法があるということで正直ホっとしている。
小松 亡くなった方の被害救済ということで遺族に莫大なお金を払うことが本当に救済になり得るのか、保険医療でそのような支払いが行われてよいのか、という点について、法律家の中にも疑問を持っている人が多いと聞いている。
長谷川 2例とも医療者から見れば間違いなくトンデモ判決だと思うが、それは別としても、被害を誰かのせいにして過去に捉われて非難の文化、応報の文化が本当に救済になるのかと思う。自助で回復しないといけないものが誰かを悪いことにすることで却って妨げられることなないか。文化的切り替えが必要だと思う。その点について医療者自身も頭を切り替える必要はあるような気がする。
和田 本当に救済なのかという点から言えば、勝訴しても不満に思っている遺族が非常に多い。司法の枠組みを超えた部分が要請されているのだろう。医療者からの疑問も患者からの疑問も等価であり、将来を見据えた大きな視点から議論が必要なのだろう。
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