「どこでボタンをかけ違えたのか」 宮台真司氏講演 ~現場からの医療改革推進協議会より
ヨーロッパとアメリカには、一見形は全く違うんだけれども機能的には同じ、イクイバレントなシステムがあります。それは簡単に言うと自分たちにできることは自分たちでやる、それがどうしても難しい場合に行政を呼び出す。しかし、できるだけ低いレイヤー、lower layer から呼び出すんだよということです。欧州の場合、それを補完性の原則という風に言います。補完性、難しい言葉ですね。向こうでもsubcivilalityという難しい言葉を使いますけど、要は行政は社会の補完物に過ぎない。主は社会で、つまりメインは社会でサブは行政だよということで、さらに言うとメインはlowerレベルで、サブがupperレベルだよという意味も含みます。
アメリカは逆にそれとは違って共和制の原則というものがあります。元々、アングリカンたちの圧政を逃れてきた宗教的新天地を求める者たちのアソシエーションなんですね。だから例えば今でもユタ州の人口の70%以上がモルモン教徒ですよね。宗教的結社としての州の発想があった。多くの場合、ほとんど生まれ落ちた場所とか生まれ落ちた階級という意味になります。コミュニティが重要だよ、それがまず自分たち我々の意味なんですね。我々にできないことって言う時の我々。アメリカの場合には宗教的アソシエーション。教会が単位になる。それが我々にできることと言う時の我々ですね。ちなみになんでこの間の中間選挙でオバマが大敗したかというと、国民皆保険化のようなものは州によってはやればよい、ただ州の問題で、連邦政府がやるなよということなんですね。元々、アメリカ合衆国憲法修正第二条というのは、元々は州兵、今では民兵の集団的蜂起、武装的蜂起ってヤツですね、つまり革命権を規定したものなんですね。そういう伝統がある。ヨーロッパの場合には何の伝統があるかというと中世自治都市、さらに遡ればギリシアのポリスの伝統なんですね。
日本ではどうかというと、とりわけ明治維新以降、全く逆のことをやってきた。日本では共同体を全部、行政組織で置き換える。例えば明治5年学制改革以降の小学校の学区がそうですよね。要は村人たちは村人であって国民じゃないんですね。国民として再編するために、学区・町内会・自治会・隣組、こうした中間集団を統治の手足として使うことによって、各人を把捉しコントロールすることをやってきた。もう一つ置き替えの動きがある。日本では、大正後期以降、大企業を中心に順次、とりわけ戦後は労働組合運動で、ある程度小さな企業も含めて、企業が共同体になっていくわけです。共同体がなくなって、行政組織の疑似共同体が残る。共同体がなくなって、企業組織という疑似共同体が残る。しかし、さっきも言ったように、両方ともシチュエーションが変わると藻屑と消えるんですね。しかも、こういう伝統があるので、共同体が国家への抵抗拠点となる、ある種のエートスというか構えが全くないんです。
それがないのは何がないのかという問題ですが、ソーシャルヘリテージ問題、社会的相続問題。日本人は市場主義って言った時に個人を考える。さっき、市場と再配分を個人と国家に置き換えましたよね。市場を個人に置き換えるのは、日本人だけですよね。たとえばアメリカでグローバル化対応の最も巧妙なのは誰ですか。ユダヤ人と中国人というか、ユダヤ社会と中国社会ですよね。背景にあるのは血縁主義ですね。皆さん15歳になって元服する時に、そうかいシンジ君何なりたいの、そうなの法律家ならこの人だよ、政治家ならこの人、医者ならこの人という風に、親族の中にみんないる。中国もユダヤも全く同じですよね。そうやってグローバル化の中を生き残っていくのに、丸腰で個人がグローバル化に対応できるなんて思っているのは、日本人だけですよね。