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ニュース〜医療の今がわかる

村重直子の眼7 坂田和江・薬害肝炎検証委員会委員(中)

 坂田和江氏の2回目。どうして坂田氏が「薬害訴訟原告」になったのか、原告を色眼鏡で見がちな医療関係者にこそ、ぜひ読んでいただきたいと思います。(川口恭)

村重
「そもそも原告団に加わったところから今回の検証は始まっていると思うんですが、原告団に加わったいきさつから教えていただけますか」

坂田
「私は1987年、昭和62年の8月にフィブリノゲンを投与されていました。全く知らなかったんですね。フィブリノゲンを投与されていたのを知ったのは平成16年です」

村重
「そうだったんですね」

坂田
「はい。同じ内科で、山口さん(美智子・薬害肝炎全国原告団代表)とか後に原告団のメンバーとなる数名と闘病生活を送ったんですよ。同じくらいの年代の女性が。普通は内科と言ったら、おじいちゃん、おばあちゃんが入院しているものだと思いますが、若い女性が次々に入院してくるので、とても不思議だなあと思っていました。そうしているうちに若者どうしで集まるようになりました。それで輸血を受けましたという話になって、輸血ってこんなに肝炎になる確率って高いんだというような話をした記憶があります。肝炎になってから、ものすごく風邪をひきやすくなって、何しろ抵抗力が低いなというのは感じていました。それで平成元年に長女を産みましたが、3カ月後に重症肺炎と言われて人工呼吸器まで付けて生死の境をさまよったんですね。その時に、産後の体力低下とC型肝炎のダブルの影響があったんじゃないかと言われました」

村重
「そうでしたか」

坂田
「半年くらい隔離された状態で娘と会うこともできずにですね、半年後に娘と会ったら忘れられてて、お母さんだよと言っても泣いて逃げるんですね。その時には本当につらかったですね。人工呼吸器を付けて生死をさまよっている時は、娘がなぜか乳母車に乗っていてトラックにひかれる夢を見るんですね。それで私、生きなきゃ生きなきゃ、娘を助けなきゃという一心でそういう夢ばかりぐるぐると見てました。平成3年には次女を産みましたが、その前に妊娠したということが分かった時には、内科医が絶対に産んだらダメだと、自殺行為だと言われました。たしかにC型肝炎でもあったし重症肺炎にもなりました。言われることも分かるんですけど、どうしても何かこの子を産みたいなと、それだけは私譲れなくて、産科の先生のところに行きまして、『実は反対されたんだけど、どうしても産みたいんです』と言ったら、じゃあ万全の体制でやりましょう、安心してくださいという一言をいただいて産む決心をしました」

村重
「そうなんですね」

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