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ニュース〜医療の今がわかる

ビジョン会議2


本日は有識者2人へのヒアリング。
世界の中から日本の医療を見るということで
尾身茂・WHO西太平洋地域事務局長
歴史の中から現代の医療を見るということで
新村拓・北里大学一般教育部長。


余計な前置きはなしに、尾身事務局長の話から拾っていく。

「日本を離れて20年になる。外から日本の医療を見ているし、また他の国の保険制度も見てきた。そういった視点から少しお話をしたい。

日本の医療を少し評価してみると、一般に使われているOECD各国の医療費の対GDP比比較であるとか、人口千人あたり医師数で見ると、マクロで見れば日本の医療は大変効率的であると言える。つい最近まで、WHOの中でも、特にフリーアクセスを実現しながら、あまり医療費を使わず、スタッフの数も少ないということで優等生であった。もちろんミクロで見るといくつか改善しなければならない問題はあって、たとえば1年間の医師の診療回数がOECDの中でも圧倒的に多い。それから、たとえばCTスキャンの普及率は断トツの一位であるとか、まだまだ効率化できる点はある。今まで述べてきたことが数値で表せる日本の医療の特徴である。

その他に数値では表せない、いわく言いがたい日本の医療の特徴が3点あると思う。

まず一点目。極端に社会主義的、平等主義的なことと極端に自由主義的なことが混在していることは世界の中でも際立った特徴だろう。前者の代表は、国民皆保険であり、個人的には大変素晴らしい制度だと思っているが、それから診療報酬で卒後一年目の医師だろうが20年30年経ったベテランだろうが同じ医療行為に対する点数が同じということは平等主義だろう。一方の自由主義的なところはどこかというと、開業が経済的条件を除けばほとんど自由である。そんな国は日本くらいしか知らない。それから医療費のマネジメントの面でも一部にDPCは導入されてきたが、ほとんど出来高払いで、その点も自由主義である。

次に二点目。欧米と比較すると、医療の量の評価はあるが、質についての客観的評価が甘くなっている。立派な先生もいるけれど、一方でたとえば専門医の資格が欧米に比べて簡単に取れるように、全体として評価のシステムが弱い。それに派生して、質に見合う報酬がない。もちろんお金だけでやっているわけではない、お金なんか関係ないという先生も多いことはよく知っているが、早く良くなったからといって収入が増えるわけでなく、むしろヘマをして何度も処置をした方が収入が上がる。

最後の三点目。欧米では、専門医とゲートキーパー、かかりつけ医とか家庭医とか総合医とか呼び方が混在していると思うけれど、それがハッキリ分かれていて役割分担されている。英国が典型だけれど、その点が日本と違う。

以上3点の特徴を備えた日本の医療を外から見ていて、素晴らしい制度が崩壊しかかっていて、新臨床研修制度がそのトリガーになったという説明も聞くのだけれど、たしかに新臨床研修制度がトリガーになったかもしれないけれど、既にその前から日本の医療は3つの根元的な課題を抱えていて、それが顕在化したに過ぎないと思う。

3つの課題とは、まず一つ目。医療サービスは本来公共財として扱われるべきものであり、車やテレビのように好みとかお金のあるなしで受ける受けないが決まるものではない。誰もが病気になるリスクはあるのであり、そのリスクを皆でプールする仕組みであり、決して一部の人のものではない。断じて医師のものでも一部の患者のものでもない。その認識がこれまで低かったと思う。

次に二点目。全体として見れば日本の医療はターニングポイントに来ているにも関わらず、そのビジョン、イメージ、あるべき姿が国民的コンセンサスを得ていない。どういった医療、保険、システムのあり方を考えずに、ややもすると場当たり的で来たのかもしれない。

三点目。機械の共有とか、地域全体でダイナミックな連携をすることが、やや足りなかったのだろう。

この3点の課題を踏まえて私見ながら、どんなコンセプトが必要なのか5点挙げる。

1、医療・医師に関して公共財としての概念を浸透させる。プロフェッショナル集団としての職業の自由は最大限に尊重するけれど、同時に公共の福祉も考えないといけない。どこに行っても何科の医師になっても自由というのは、どこかで是正しなければならない。

2、そろそろ大きなデザインを構築する必要がある。今の人口動態、病気のパターン、人の動きを考えれば、各地域ごとに何科の医師が何人必要か、もちろん100%一致することなんてあり得ないにしても最大公約数的なものは求められるはず。それは臨床研修の人たちの地域配分も同じで、もちろん教育機関としての適格性は見ないといけないけれど、基本的に地域ごとに配分が決まっていていい。それから、そろそろ結果に対するインセンティブを入れる、つまり診療報酬の中に医療の質を反映することが必要でないか。

3、専門医と総合医の役割をハッキリさせ、分担させて連携させる。

4、プロフェッショナル集団としての自浄性が必要。個人的な感覚で述べると、特にヨーロッパの医師集団に対する社会的な尊敬度は日本より高い。医師側にも努力が必要だろう。

5、国民的な議論の場が必要であろう。そこには政治家、官僚、医療者、マスコミ、患者が参加する。そして結論を急がず、数年かけて腰を据えて議論する時期に来ている」


非常に論旨が明解である。
医師たちには素直に受け取れない点がいくつかあるだろうが
いみじくも朝日新聞の28日付社説とシンクロしており
この流れは止められないと考えた方がよいと思う。
問題は、お上にやられるか、自分たちでやるか、だ。


なお、実は国会が荒れているため(らしい)
この時まだ舛添大臣は来ていない。
次の新村教授が話し始めたところで定刻より25分遅れで到着。
テレビカメラの頭録りがここで始まる。
どうせ放送しないくせに、なぜ議論をブチ切る? と思うが
まあ万が一ということもあるしな。
登場の舛添大臣
「一言言った方がいいの?」と事務局に尋ねてから
「本日、官邸の社会保障国民会議も第一回会合を持った。この検討会と同じテーマで国民を代表する人々が議論する。私達の検討とも接点を持つだろう」とだけ言って新村教授に場を返した。


新村教授
「歴史を踏まえて現代の医療をどう見たらよいのか、課題を6つ提示したい。

まず看取りのありかた。古代において既に看取りの方法がマニュアル化されていた。それは主にお寺さんの中でのことであった。中世になると、その辺のことを一般向けに教える指南書のようなものが出てくる。江戸時代には、それが広く踏襲されて教養・常識として定型化していた。しかし明治に廃仏棄釈もあって人心の仏教離れが進む。また同時に西洋から医者、看護婦というものが入ってきて、看取りの場に加わる。それまでは、家族・親族・信仰仲間が看取り、死を確認して、死後の処置も行ってきた。しかし、明治7年以降は医療者が前面に出てきて、家族・親族は背後に引っ込んでしまう。つまり医師に国家資格が付与され、半公人としての医師が死を確認して死亡診断書を出さなければ、火葬も埋葬もできなくなった。それでも、しばらくはターミナルフェイズに医者が関与することはなかった。なぜならば死は穢れを伴うし、死は医療の敗北でもあるから。でも段々死亡前の状態にも関わるようになってくる。

それで1960年代まで来たところで高度成長の核家族化によって、伝統的な看取り文化が消失した。地域からも家族からも失われた。ここへ来て厚生労働省が在宅死を推進しようとしているけれど、そう言われても看取りの文化を持たない家族の方は、どう看取ればよいか分からず困ってしまう。頑張ったとしても最後には救急車を呼んでしまう。在宅死が必ずしも望ましいとは限らないと思うけれど、少なくとも推進するからには、看取りの文化を再び勉強し直す必要がある。

文化というものは教育がなければ失われるものだ。実は、かつては高等女学校の家政学で看取りを教えていたし、農村の女子青年団でも講習会を開いたりしていた。父母や地域を通じて教育をされていた。今は死は老人にしか起こらないことになっているけれど、戦前は死亡者に占める65歳以上の人の割合は23%に過ぎなかった。4分の3は若い人が死んでいて、死亡があらゆる年齢層に行きわたっていた。だから、人の死を直に勉強する環境にあった。それがない以上、学校教育の中で看取りの文化を教えなければならない。あるいは公民館などで介護の勉強会などあるが、その時に併せて看取りの方法も教えればいい。

看取りの文化が甦れば、少なくとも選択肢が広がることにはなるだろう。在宅死を願う人が8割いて、でもそのうちの3割しか希望を叶えられていない。7割は家族に拒否されている。いったい自分は何のために生きてきたのかと思いながら死んだのでないかと想像してしまう。在宅死は高齢者の希望を叶えるだけでなく、デス・エデュケーションの機会でもある。それはいかに生きるか考えさせる。看取りの文化を勉強する機会を提供するような地域のネットワークができれば、その地域で安心して死ねることになるし、街の活性化にもつながる。

ふたつめは医師の資質と養成のありかた。典薬寮というのは、昔の厚生省のようなところだが、そこでは医師の養成にあたって教養と倫理、また理論より技術実技が非常に重視されていた。2年間の教養過程の後に5年から7年の専門過程があった。また医師の評価方法も奈良平安時代には既にあった。治療が終わったら患者が報告書を出す。それを1年貯めておいて、治癒率が7割以上あれば上、5割なら中、4割なら下で4割以下はクビになる。患者が質を評価するシステムが行われてきた。遍歴医という制度もあったが、新臨床研修制度はまさに色々なところを回ってその良いところを吸収するシステムで現代の遍歴医と言える。

3つ目が病院のありかた。診療所が大きくなって病院になったため、機能分化がない。分化のないところに連携もない。分化させて初めて連携ができる。地域医療連携システム、オープンシステムが今後広がっていけばいいかなと思う。欧米の場合、病院は寄付や慈善事業、教会の付属として存在するので、地域の皆さんが自ら参画しているという認識と愛着を持ちやすい。日本でも地域の医療機関に対して、地域の人々が自分たちのものであると考えるような工夫ができないか。たとえば寄付控除であるとか、ボランティアの育成であるとか。歴史を見れば、経済が伸びて生活水準が上がった時には、医療需要も増え、それを満たすために医療機関が増えてきた。そして医療供給がまた需要を掘り起こす。だから経済が伸びている時に医療費を削減するのは難しい。

4つ目は健康管理のありかた。有名な貝原益軒の養生訓は、その時代までに言われていたことをまとめたもので、益軒のオリジナルはほとんどはない。その中で自己管理・自己責任を説くわけだが、江戸時代中期になると、養生訓を否定する考え方が台頭してくる。すなわち、養生訓ではなぜ長寿をめざすかというと、人格の完成をめざさなければいけないし、それが自らを生み育んでくれた父母や天地への孝行になる、だから養生して健康でなければならないということで禁欲・中庸を説くわけだ。しかし、長生きしたって介護の負担が増えるだけだし、人生の質も下がるので良くない、むしろ禁欲を求めるのでなく、禁欲を求めるとかえってそれがストレスになって短命になる、ほどほどに生きてほどほどに死ぬのが良いという考え方が一定の勢力を持ってくる」

配られたレジュメには、5医療技術のありかた、6認知症老人とのかかわりかたという項目も入っていたのだが、どうやら有識者1人に与えられた時間は15分しかなかったようで、事務局から伝令が出て陳述はここまでとなった。


野中
「連携について二人とも言われた。診療所が大きくなって病院になったから分化がなく連携が進まないというのは確かにその通りだと思う。もう一つ連携が進まない理由は、連携という言葉が医療機関のために使われているからでないか。地域住民に適切な医療を提供するために連携するんだということについて議論が足りないと思う。外国ではどういう形から連携が構築されているのか教えていただきたい」


尾身
「北欧で連携がうまくいっていると言われることが多い。それは看護師も含めて、タスクシェアリングが進んでいるからと思う。日本はシステムが硬い。注射ひとつ例にしても役割が流動的になっていない。合理主義では、やるべきこととやらなくてもよいことがハッキリ分かれる。

根源まで遡ると、医療体制を誰が作るのかということになる。それがデモクラシーの歴史の長さに由来するんだろうが、住民が保険料を払っている以上、そのニーズから発想するのが当然と誰もが思っていて、供給側の都合で進むことはあり得ない。各地域で必要な医師の数も決めている。その配分は、プロフェッショナル集団がやる国と公権力が行う国とあるけれど、医師の配分を野放図にしている国はない。大きなフレーマーが必要で、日本でもやられたらどうか」


野中
「地域医療計画というのは本来そういうものであるはず。20年も前から計画がある。しかしきちんと立てられてきたか、単にベッド数の話として認識されてきた。どういう体制が望ましいかを考えてこなかった一つの原因は、地域の行政が音頭を取ると、その分お金を入れなければならなくなるという恐れがあったのでないか」


新村
「分化は病診だけでなくコメディカルについても同じ。またケアマネージャー的な人が医療にも必要。これまでは、それを医師が担ってきたけれど中途半端だった。マネジメントの専門家を養成することが必要。(この間メモが解読不能)倫理は積み重ねがあって身につくもの」


辻本
「医学部一年生に話をしても、それこそ看取りも命の教育もされてきていないから、実感がなくて、倫理の授業は居眠りの時間になってしまっていて、育まれていないと聞く。先生は、そこをどう変えていらしたのか」


新村
「講義だけだと難しい。体験学習で外の福祉使節なんかに行かせて体験させるといい刺激になっているようだ。同じ授業を6年の時にもやるけれど反応が全く違う。体験が決め手だろう」


矢崎
「医療を公共財として考えるということについて、たしかに税金が入っているので賛成なのだが、医療側にもそういう認識を求めるなら、行政の関与としてあるなら、国民の皆さんにも医療を公共財と認識していただきたい。フリーアクセスの誤解がある。救急患者のうちかなりが本当に必要なのか疑問な人たちだ。専門医療への過度な期待もそう。国民全体で考えないとコンセンサスは得られないのだろう。

病診連携というのは、地域とのコミュニケーションなのだと思う。先ほどの診療所が病院になったという話だが、欧米ではたしかにそうなのだが、日本の場合は明治維新で先に大学ができて大学病院ができて国立病院ができてというように、国立病院の病床数が全体の3割あった時代もあるわけで、診療所から病院になったというのは少し違うと思う。欧米では診療所から病院ができ大学ができだったので地域との関係が密だ。日本では、大学が教育も含めて自己完結してきた。で、地域のニーズに即した病院というのは自治体病院がそうなるけれど、そのシステムが再構築を迫られている現状を考えると前途多難だなという実感を持つ」


舛添
「間もなく中座するので一言だけ。今議論になっている公共財として見る話なのだが、国立、公立、私立がある中で、どこまで国の計画に従わせて、規制がかけられるものなのか。公が関与するということは基本的にフリーライドを許す前提であり、フリーライダーを許すからこそ規制もできる。今、全国の産科が4月1日から閉鎖しますよという状況が目前に迫っていて、そこまで2ヵ月しかありませんから、この間長野県に行った時に最終防衛戦はどこだと尋ねたら、5ヵ所くらいの基幹病院が挙がってきました。1人欠けたら1人補充してということでしのげるかもしれないが、それは何も問題の解決にはならないわけで、最終的には集約が絶対に必要だろう。しかし、それを私立について強制力を持ってやれるかと言ったら難しい。

医局の派遣機能が落ちているとは言うけれど、悲鳴が聞こえるのは公立病院ばかり。要するに非公立病院からは悲鳴が聞こえてこない。公立だけで話をするのは意味があるのか。なぜ公立病院だけにそういう問題が起きているのか、甘えの構造や官の悪があるなら直していかないと。そんなことを今考えている。これは答えあるんですか」


野中
「答えはないだろうが、(中略)平成元年から地域医療計画を立ててきたのだから、本当はこうなると分かっていたのではないのか」


舛添
「今、この遍歴医みたいなものは使えないのかな」


新村
「福岡県のホスピス医でワンボックスカーに機材一式を積んで移動している人はいる」


舛添
「奈良・平安時代は国が任地を決めていた?」


新村
「そうです。それとさっき言った『下』でクビになった医師たちが渡り薬師となって全国を回っていた」


西川
「厚生労働省の考えている基本的方向の集約化で正しいと思うか。ゼネラリストをどうやって育てるのか、二点伺いたい」


尾身
「集約化は大賛成。GPのプライベートヘルスケアがある地域といない地域とを比較すると、うまく連携するとアウトカムが大きいという報告はゴマンとある。誰がやるのかは別だが、専門家は専門家じゃないと困るのだが、それをタテの専門家とするならば、むしろ横断的に見るヨコの専門家がいて、どこからタテの専門家に渡すかさばかないと、今後はもたない」


西川
「ゼネラリスト用に医学部に学科をつくる?」


矢崎
「医学はここ20年、特に直近10年めざましく進歩して新しい技術が続々と生み出され、若い人からするとそれを上達しようと専門の道に進むのが魅力的で、一方のゼネラリストへの魅力が欠けていた。だから、診療所の在り方も考え直してもらわないといけない。なんでも病院に行かないと気が静まらない患者たちの存在が勤務医たちのオーバーワークにつながった。診療所には、しっかりした防波堤を作っていただきたい。病院は最近相当情報を出しているけれど、診療所はどんな先生がいるのかの特色が分からない。診療所も機能分化してよい。たとえば在宅を引き受けるとか、たとえば時間外気軽に行けるとか、サテライト機能のようなものを持つべき。

厚生労働省は総合科の医師を育てるという考え方のようだが、最初からだけでなく、専門を積んだ人タワーマンション型になるのでなく、裾野の再教育を受けて富士山型になるという手もあるだろう。

それから、資料にもあるけれど、日本は急性期病床は多いけれど、死を迎えるための長期ケア病床は少ない。功なり名を成し遂げた人は大学病院で死ぬというのがステータスシンボルになってしまっていて、また家族の側も最善の医療を尽くしたということで死を容認するというか免罪符にする、だから名ナーシングホームのような長期ケア病棟を選ぶと、それだけで世捨て人みたいなイメージになってしまう。そのイメージをなくすようにしないと医療資源の配分としてはうまくない」


舛添
「じゃ、すみません。ここで失礼します。議事録を後で見ますので」


野中
「現場で末期がんの患者さんを診ている実感として思うのは、病院で治療を受けている時から、病院の治療と地域の医療との違いとをきちんと説明しておくべきだ。機能分化というけれど、実は専門医とゼネラリストをきっちり分けるのは難しい。GPだって勉強したらすぐなれるというものではない。現場で体得するしかない。

それこそ養生訓ではないが、何のための長寿か。少しでも長く家族と一緒にいられることを実現するのが本来であって、介護が大変だから在宅を選択できないというのは根本的に間違っている。(中略)出発点をそもそも間違っている気がする。ピンピンコロリが良い死に方と考えられるという時代は何かおかしい。病気を抱えても地域の中で生きられるようにするべきだ」


辻本
「最終的に患者が医療とどう向き合うのかが問題だということが改めてクリアになったと思う。1回目の会議の時に、患者が成熟することが大切と言った。それ抜きにこの問題の解決はない。昭和36年の国民皆保険導入以来、良くも悪くもお任せで済んできたし、お任せにした方が良い患者として報われるという誤解もあったと思う。そこに急激に医療不信が高まってきたのだけれど、それは一部だが声の大きい人達に引きずられて、国民全員が漠然とした不信感を持つようになってしまったのだと思う。

患者が医療を公共財として認識すべしと言われると、まさにその通りと思う反面、そのように歴史的に育てられてきてしまったのであって、改めてどう育てるのかが問われていると思う。現在、公の場で発言する患者の多くは被害体験があったり医療への不信感で自分を支えている人たちなので、医療者との協働の仕組みが作れない。どのように患者が進んだらよいのかアドバイスをいただきたい」


(略)

尾身
「舛添大臣が公共財だからといって強制配置は難しいと言っていたのと、辻本さんの話とは、切り口は違うけれど同じ話に見える。医療の課題は様々な問題とリンクしている。当座しのぎに火を消すことはできるけれど、それで本当に解決するかといったら全然解決しない。医療を巡る改革に1ヵ月や2ヵ月で国民のコンセンサスができるとは思えない。恐らくゴマンと乗り越えないといけないことがある。(中略)いろいろな利害関係があるから、狭いところで調整しようとしても苦労する。最大公約数的なものを見付ける作業は、もっと平場でやるべきだろう。衆人監視の公の場でやることによって、患者もワガママばかり言えなくなる、医師も同じ。そのプロセスが大事。公の場で1年、2年かけてやるべきもの。急がないことが大切だ。医師不足の問題も臨床研修との関係で言えば今がボトムだろうから、下手をすると抜本的な議論をせずに済んでしまうおそれがある。

厚生労働省の方にぜひお願いしたいのは、舛添大臣がいる時だけこういうことをやるのでなく、たとえ大臣が変わっても継続するつもりでいてほしい。根元的には日本の文化をどうするかの問題だ。このプロセスを省くと、また新たに問題が出てくる。(中略)ちょっとで解決できることではない。


矢崎
「このビジョン会議では、元より短期的でなく中長期的なものを提言することになっている。大胆に方向性を出さないと、医療は利害関係が複雑すぎて、ファクターを全て考慮に入れながら議論すると、方程式に解を得られない。大臣のリーダーシップの元で提言まで持っていきたい。単なる議論に終わらせないことが大切だろう。最初の提案は医師の数の問題だったかと思うが、マクロには過剰だと言うけれど、これがミクロだとどうなのか。あまり従来の考え方に捕われず方針を立てたい」


辻本
「ある知合いの産婦人科医が疲弊してお産の取扱いをやめた。年間1000件くらいやっている方だったので、地域の方が困っているでしょう、と言ったら、本当にさびしそうな顔をして『困ってくれたら、やっと僕のやっていたことを理解してもらえるかな』と言った。日本の医療がおかれている状態を表していると思ったので、ご紹介したかった」

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