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ニュース〜医療の今がわかる

(2010年3月号掲載)

54order.JPG遺伝子の発現

 前回、生命現象のかなりの部分がRNA(リボ核酸)とタンパク質に担われていて、そのRNAとタンパク質を細胞内で作り出す「設計図」と「作業手順書」のセットになったものが、DNA(デオキシリボ核酸)上にある遺伝子だという説明をしました。
 私たち人間は誰もが、最初は1個の細胞である受精卵が自発的に分裂増殖(複製)を繰り返し、多種多様な約60兆個の細胞の秩序立った三次元構造へと作り上げられます。たった1つの細胞に、体を立体的に構成するありとあらゆるプログラムがインプットされているのです。この受精卵だけが持つ、神秘的なまでの力を「全能性」と呼びます。
 体内の細胞はそれぞれ特別な形状と役割を持って働いています。これは細胞ごと、その役割にふさわしいRNAやタンパク質が作り出されているということです。遺伝子がRNAやタンパク質を作り始めた状態を「遺伝子が発現した」と言います。遺伝子のスイッチが入ったと表現すれば、一般の方にもイメージしやすいでしょうか(図参照)。
 実は、我々の60兆個の細胞は、すべて受精卵と同じだけの遺伝子を持っています(赤血球やリンパ球などを除く)。しかし受精卵のような全能性は持っていません。理由は2つあり、受精卵の細胞内の状態が特殊であることと、私たちの細胞が「分化」していて、必要な遺伝子だけ発現するよう制御されていることです。

最初にある「分化」

 受精卵が分割増殖を始めた初期段階の細胞は、条件さえ適切ならば体のどの部分の細胞にでも変化することができます。言葉を換えると、ほとんどすべての遺伝子が発現可能ということです。この能力を多能性と呼びます。「ES細胞(胚性多能性幹細胞)」という言葉を聞いたこともあると思います。
 受精から一定の期間を経て、いったん分化が始まると、以後は多能性を失います。発現できる遺伝子が決まるのです。この多能性を失った体細胞に遺伝子を3~4個導入して多能性を取り戻させたものが、有名な「iPS細胞(人工多能性幹細胞)」です。
 体細胞が多能性を取り戻す現象はもう一つ知られていて、それが「がん化」です。病理診断の際に、分化度という尺度も用いられるとご存じの方もいることでしょう。
 どちらにせよ分化・未分化の話は、私たちの日常とあまり関係ありません。日常で起きているのは、分化した細胞の中で、発現すべき遺伝子が、発現すべきタイミングで、多すぎず少なすぎず発現するという絶妙な生命現象です。
 遺伝子のスイッチを入れたり切ったりするものは、その遺伝子自身の産生物や、別の遺伝子の産生物や、はたまた細胞内外の物質濃度だったりします。
 このスイッチのオン・オフが狂った場合、もしくは元から大多数の人とスイッチが異なるような場合、病気として認識されるものになる可能性があります。

日常の「発現」

 世界で最も権威ある科学雑誌の一つ『サイエンス』は、07年度10大ニュースの2位にiPS細胞を挙げました。iPS細胞を抑えて1位となったのが、他でもないこの連載のメインテーマである「人間の遺伝的多様性」です。
 この分野の研究は、世界で協力して長年行われてきており、それがいよいよ実用化に近づいたと認識されたのがこの年だったということになるでしょうか。
 たとえば90年には、人間のDNAの全塩基配列を読み取ろうという『ヒトゲノム計画』が始まっていました。日本のチームも計画に参加し、途中で解析技術の進歩もあり、予想よりはるかに早い03年に全配列解読を終えました。
 続いて02年に始まった国際ハップマッププロジェクト(後日詳しく解説します)は05年に第一期を終え、その結果、DNA配列の人種差や個人差にいくつかのパターンがあると分かりました。
 遺伝的多様性とは、要するに発現する遺伝子の違いによって、細胞内で作り出される物質の種類や量に個人差が出るということです。
 作り出される(あるいは作られるべきなのに、ない)物質の中には、病気を起こしたり、病気のリスクを上げたりするものもありますし、逆に薬の効果や副作用の出方に影響を与えるものもあります。その種類や量があらかじめ分かれば、「オーダーメイド医療」を行うことが可能になります。

薬剤副作用による医療費、推計2兆5000億円

 1994年の米国での薬剤の副作用に関する調査結果によれば、薬剤の副作用によって入院を余儀なくされた患者数は200万人、死亡した患者数は10万人、副作用により派生した医療費は約700億ドルだったと言います。最近はもっと増えているという説も有力です。
 日本でのデータはありませんが、人口比だけで単純に類推すれば、94年程度の水準だとしても、80万人が入院し、4万人が死亡し、副作用に対処するための医療費が2兆5000億円かかっていることになります。患者にとって大変に恐ろしい話ですし、医療資源のひっ迫を招いているという意味でも喫緊の課題です。


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