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PMDA(医薬品医療機器総合機構)の不思議-特集2「歴史」

(2)「歴史の不思議」
薬害発生とともに改編された組織


 国内で薬害が発生するたび医薬品行政にかかわる組織が改編され、そして今のPMDAがある。

 1961年、日本の薬害の原点とも言われる大型薬害のサリドマイド事件が起こった。妊娠初期の女性がサリドマイド製剤を服用することで四肢に重い障害を持つ子どもが生まれるこの薬害は、世界的な被害を起こし、国内でも309人が被害児として認定を受けている。国を相手取った訴訟は各国で和解が成立していたが、国と企業それぞれが責任を認めて賠償金を支払うという対応は日本のみで、この後の日本の薬害訴訟に大きく影響したとの説がある。

 PMDAの大本となる組織は、薬害スモンをきっかけに1979年に設立された「医薬品副作用被害救済基金」だ。下半身麻痺から失明に至ることもある難病のスモン(SMON:Subacute Myelo-Optico Neuropathy...亜急性脊髄・視神経・末梢神経障害)は整腸剤「キノホルム」を使用することによって約1万人が被害を受け(旧厚生省調べ)、激しい偏見や差別を生むなど社会的な問題になっていた。基金は、患者への健康管理手当と介護費用の支払、和解を行う製薬会社への一時金貸付などを行っていた。

 また、薬害スモンを契機に1979年に薬事法が改正され、法の目的として医薬品の有効性、安全性を確保することが明言された。承認申請をする際には決まった書類を提出しなければならないとするなど承認基準も定められた。

 1987年、医薬品副作用被害救済基金は、「医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構」に名称を変え、医薬品や医療機器開発を行う企業を支援する研究振興業務を担うことになった。さらに1994年には、承認申請をしてきた企業に対する臨床試験状況の調査の業務も加わった。

 旧厚生省は1996年、承認審査をチーム体制とすることや、調査報告書などを公開するなど承認体制の強化を求める報告書をまとめ、1997年に国立医薬品食品衛生研究所(東京都世田谷区)の中に、「医薬品医療機器審査センター」を新設した。
 
 この背景には、1993年に起こったソリブジン事件と、1970年代後半から進行していた薬害エイズが表面化したことで、国の医薬品行政に関する責任体制が問われたことがある。ソリブジン事件は、フルオロウラシル系抗がん剤を服用していたがん患者が、帯状疱疹治療薬のソリブジンを服用することで起こる副作用が原因となって15人の死者を出した。さらに、薬害エイズでは、非加熱の血液製剤を投与された血友病患者約2000人が被害を受けた。

 1997年までは、厚生省の職員が承認審査を行い、当時の厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会が医薬品を承認していた。元厚労省の薬系技官で、PMDAの審査官も務めた小野俊介氏(東大大学院薬学系研究科准教授)は「10人ぐらいでやっていて、審査とも言えないような状態だった」と語る。この頃、厚生省と審議会、医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構の責任体制が不明確と言われ、薬害によって承認審査体制の強化を求める声が高まっていたが、公務員の定員の問題や当時の行政改革の流れがあり、省内の人数は増やせなかった。このため、センターを設置することで厚生省から承認審査部門を切り離した格好になった。

 審査センターは、承認審査にかかわるスタッフを241人にまで増やし、医師や薬剤師など専門職を増員した。当時のスタッフの一人で、現在は国立がんセンターの臨床試験・治療開発部長を務める藤原康弘氏は「審査管理の専門家が集まったことで、専門性を生かした承認審査ができるようになった。当時の厚労省と製薬会社は、大蔵省と銀行のような関係で、組織が変わる時にはさまざまな反発などもあったが、旧厚生省で通っていた従来の決まり事も近代的に変えられていった」と当時を振り返る。


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